第8回 正義は逆転する
NHKの朝の連ドラ「あんぱん」の放送が終了しました。最後の方はアンパンマン一色になってしまった感はありましたが、私自身は全体として楽しく観ることができました。特に戦争の描写がかなりリアルだったことが印象的でした。このドラマの中で、主人公の嵩(たかし)とのぶの2人が、それぞれに戦争への反省から、「逆転しない正義」とは何かを追求していく姿が描かれていました。やがて嵩は、それが「お腹が空いた人に食べ物を届けること」だという結論に達し、そのことがアンパンマンの誕生の原点になったということでした。
正義が逆転してしまうのは、そもそも唯一絶対の正義というものが存在せず、相対的なものであるからです。しかしその中でも 「逆転しない正義」とは何かと考えると、おそらくそれは時が流れても、人が代わっても、正しいと受け入れられるだけの普遍性を持った概念、価値観のことだろうと思います。人は食べなければ生きていけませんから、まずは食べられること、そのためにお腹を空かせた人に食べ物を届けることは、全人類的に普遍性を持った正義に違いありません。
ところがガザでは、これとは全く逆のことが起きています。2023年10月から約2年の間に、イスラエルによってガザ地区では6万人以上が殺害されたと報告されています。国連人権理事会の調査委員会は9月16日に、イスラエルの大量殺戮行為をジェノサイドと認定しました。しかし国際的な批判の強まる中でも、イスラエルのガザ侵攻は止まっていません。ガザ地区はすでに飢餓状態にあり、国連などが継続して食糧支援活動を行っていますが、イスラエルは支援活動を妨害するだけでなく、食料の配給に集まった人たちに発砲して大量に殺害してさえいます。イスラエルの、ネタニヤフ大統領にとっての正義とは、民族浄化とパレスチナ人に対するジェノサイドであり、その成就のためにはお腹を空かせた子供に食べ物を届けることさえも許さないということなのだと思います。イスラエルにおいて、いまこの醜悪な「正義」が直ちに逆転することは望めそうにありません。
私の親は戦争体験世代でしたから、子供の頃に戦時中の話も聞かされました。戦時中の学校では軍国主義教育が徹底されていて、クラスは小隊に見立てられ、学年は中隊で、担任は小隊長、学年主任は中隊長扱いだったと聞きました。だから生徒が職員室に入るときには「〇〇小隊□□、入ります」と言わなくてはならなかったとのことでした。戦況が反転して空襲が始まっても、先生は「今は敵味方入り乱れて戦っている」と言い、日本軍もアメリカを空襲しているのだと教えました。(敵味方が太平洋を隔てて入り乱れるなどは、冷静に考えればちょっとありそうもないことなのですが。)敗色濃厚の戦争末期になっても「日本は神国だから、今に神風が吹いて憎き米英を薙ぎ払ってくれる。元寇のときもそうだった。歴史が証明している」と先生が言うので、生徒たちは日本の勝利を全く疑わず、負けるなどと考えてもいなかったという事でした。(だから教育の力は恐ろしいと、私の親は何度も繰り返し私に話しました。)ところが敗戦を境に教育もガラッと変わって、よく知られているように教科書は墨塗だらけになります。「これからは天皇陛下のことを”お天ちゃん”と呼んでも良いのだ」と言う教師までいたとのことで、当時の学校でもまた、正義の逆転する様そのものが随所に見られたのだと思います。
しかしここで気を付けなくてはいけないのは、敗戦を境に逆転したのは正義そのものではなく、その当時の日本社会において主流となっていた正義が入れ替わったということです。入れ替わる前の正義(ここでは軍国主義)も現在に至るまでずっと残り続けてきていますし、入れ替わった後の正義(たとえば平和主義)も、アジア・太平洋戦争以前からすでにあって、戦争中も生き続けてきたものです。社会の構成員が入れ替わった訳でもないのに、社会で主流となる正義が入れ替わってしまうのは、日本人ひとりひとりにとっての正義が入れ替わったからにほかなりません。つまり正義の逆転は、人々の心の中で起きているということです。
ではなぜ、私たちの心の中で正義の入れ替わりが起きてしまうのでしょうか。そもそも私たちにとって正義とは何でしょうか。そのヒントになり得ることを、前回と前々回を通じて書きました。私たちはみな自分一人では生きられず、生きられないという不安(本源的不安)を抱えた存在であるということ、生きるために社会に適応せざるを得ず、各自の適応の仕方と矛盾しないような正義を選択する傾向がどうしても出てしまうということです。
その私たちの適応というのは、具体的には国家から家庭まで、大小の集団(コミュニティー)への帰属を通じて行われます。そうなると、私たちの本源的不安は、次の2つの事柄と密接に関係してくることになります。ひとつは私たちの所属する集団の存続が保障されること、いまひとつは自分自身がその集団の構成員で居続けられることです。特に、私たちの生存にとって大きな影響力を持つ集団、つまり国家や地域、職場、宗教団体、家族などへの適応の重要度は高く、これらとの関係は「お腹を空かせた人に食べ物を届ける」と言ったような当たり前の正義さえもひっくり返してしまいかねないほど私たちの意識に強く作用する場合があるということです。
以上から、私たちは逆転しない正義とは何かを追究するよりも、正義がなぜ逆転してしまうのか、その仕組みをもっとよく理解して、そうならないためにどうしたら良いかを考えた方が良いように思われます。
少なくとも、私たちの強い不安な感情は、私たちの正義に関する認識を大きく歪める恐れがあります。そして不安は、事実そのものではなく、私たち自身の主観に基づく事実認識や世界観に基づいて生じるものです。
例えば隣国が今にも日本に侵略してくるかも知れないと考える人にとっては、自衛のために相手国内の基地を先制攻撃できる軍事力を持てるように備えることが正義となるかも知れません。日本に来る外国人が日本人の雇用を奪っていると信じる人にとっては、排外主義こそが正義になるかも知れません。企業が極めて厳しい競争状態にあり、勝ち残らなければ今にも直ちに倒産消滅してしまって、社員はみな路頭に迷い、多くの人は家族もろとも人生が破滅すると本気で心配する人にとっては、「指名解雇」リストラも実質的な賃下げもまっとうな施策であり、それらが真に正義であることを社員に理解させることが重要なミッションになり得るのかも知れません。
また、このようにして集団の存続があやういと感じられるようになれば、存続にとって不要な者、存続を妨害する者、あるいは障害になる者と認識された人たちを、攻撃や排除の対象にすることもまた正義となって行きかねません。だから自分がそうならないような行動を採用するというだけでなく、それでも足りないとなれば、自分以外の誰かが自分よりも集団にとって無用であると思うようになり、同じような不安を抱く者どうしでその思いを共有したいという欲求が加速し、やがてそれが強力な同調圧力となり、誰かの犠牲を是とするようなことが集団の正義となって、構成員の心を支配していくといったことも起きるかも知れません。
今回は以上です。この重要で深刻な問題については、これから機会に応じて少しずつ取り上げていきたいと思います。
2025年10月1日