第7回 怒りの根源について



 いらつく、あるいは怒りを覚える、そんなとき、私たちは怒りを掻き立てる側に原因があると思いがちです。腹が立つのは怒らせる側が悪いのだと無意識のうちに思ってしまうものです。もし自分の家族が交通事故の被害に遭えば、悪いのはたいてい加害者側ですし、だから私たちが加害者に怒りの感情を抱くのは当然のことです。しかし、そのような場合でさえも、怒りの沸き起こる根本の原因が実際には加害者にあるのではなく、私たちの側にあるのだと言うことを、今回あえて確認しておきたいと思います。この場合であれば、家族が自分にとって大事な人であるからこそ、傷つけられたことに対して怒りが沸くということになります。

 仮にいじめやパワハラのように、基本的に加害者側が悪いと分かっているようなことであっても、加害者側が一方的にすべて悪いと思う人もいれば、そういう言動を呼び込む被害者側にも何か問題があるのではないかと考える人もいます。このように同じいじめやパワハラの現場を目撃した人の間でも、傷つける側に否定的な感情を持つ人と、傷つけられる側にも否定的になる人がいます。なぜでしょうか。それは結局、どちらの感情を強く持つのかは、そのような感情を抱く心の状態に関係があるからです。これは、いじめる側といじめられる側のどちらが本当は悪いのかと言うのとは別の話です。

 もちろん何に怒りを覚えるか、何に対し否定的な感情を抱くのか、その理由が何かは、人それぞれ固有のもので、唯一の正しい姿がある訳ではありません。とはいえ、特に激しい怒りの感情、激情、憤りといったものは、私たちそれぞれの「生命が立脚する基盤」が揺らぎ傷つこうとするときに生じることが多いものと私は考えています。

 私たちは、本質的には、生きるために必要なものを生まれながらに何も持ってはいません。そして現代では、それらのほとんどを”他者”から得なければなりません。それらの中には公的に支給されるものもありますが、多くのものはお金で買うしかないというのが現実です。だから私たちは働いて賃金を得ることで、お金を得ようとします。そのような現実から、ともすると私たちは、一人で生きていくのに必要な分以上のお金を稼いでさえいれば、自分は”一人前”と言える状態であると思い、あたかも自分の力で生きているかのように錯覚してしまうのですが、よくよく考えてみれば、実のところ何も自力で生きていないことに変わりありません。この自力では生きていけないという事実は、私たちの不安の根源となるものです。そこから生じる不安を「本源的不安」と呼んでおきたいと思います。

 かように一人で生きていけない私たちは、生きるためにも周囲の社会に適応することが必須となります。社会には私たちを生かす様々な資源を得る仕組み、救済の仕組み、ルールがあります。公的なものもあれば、私的なものもあり、国レベルのものもあれば、地域レベルのもの、それに家族内や個人的な関係に属するものもあります。いずれにしても、私たちはその仕組み、ルールに適応することと引き換えに、他者から直接または間接に、生きるために必要な資源を獲得して生きています。会社で働いて賃金を得るというのが、ルールに対する適応の仕方の中でも最もありふれたものとなります。どのようなルールに適応するにしても、安定した日々を送ることができるようになるまで適応することは多くの人にとって簡単なことではなく、多大な時間と労力を必要とするものです。

 ところが、こうした仕組みやルールの中には、現在の公序良俗に反するようなものもあります。例えば、男女差別のような伝統的な差別形態はどうでしょうか。古い男尊女卑思想に染まった人でも、「俺は悪い男だから女を差別するのだ」とは言わないでしょう。仮に代弁するとしたら、「男は男で大変なのだ。勉学に励んだり、体を鍛えたりして自己研鑽に励み、勇気と責任を持ってことにあたり、決して逃げず、いざ戦争になれば女子供を守るために命を賭して戦う使命を負っているのだ。そして、それを果たすために、自分は日々努力精進しているのだ。だから女は男の言うことを聞くべきではないのか。それとも女に同じことができるのか。できるのなら男と同格と認めてやるとも。しかしできないのなら、黙って男の言うことを聞け」とまあ、極論すればこんな感じでしょうか。そこには、男の果たすべき「責任」や「義務」と一体のものとして、女性に対する優位性という「権利」が意識されています。つまり決してタダで優位に立とうとしている訳ではないのです。こうして女性から食事の支度や、身の回りの世話や、家庭の維持などの、生きるために必要な資源を得ている人にとっては、もし男尊女卑思想が否定されてしまったら、普段の生活にも困ってしまうということになりかねません。それは許しがたいことだとなります。

 そもそも、伝統的な差別に安住したがる者にとっては、差別の仕組みは秩序であり、それが守られることは正義でさえあります。その正義を否定する者、別の正義を打ち立てようとする者に対しては、激しい怒りが沸き起こるものだと思います。自分たちが適応してきた差別に基づくルールを否定されることが本源的不安を呼び覚ますからです。反対に、差別される側にとっては、差別が否定され平等が守られることこそが生命線であり、正義であるとなります。この対立する2つの正義は、足して二で割るという訳にもいきません。

 いま社会では、さまざまな地域や階層などで対立や分断が見られます。その原因を観察していけば、それぞれの立場における生命の立脚する基盤の違いと、本源的不安の存在が見えてくると思います。政党や政治家によっては、誰もが生きやすい社会の実現を公約に掲げています。本当に「誰も」なのか、それとも特定の条件を満たす人なら「誰も」なのか、その中身を吟味する必要はあるにしても、生きやすい社会を実現して、すべての人に対して生命の立脚する基盤を社会的に保障していくことは、社会の安定のために最低限必要な条件であることは間違いありません。(注1)

 さて、おそらく今後この連載で展開していく議論は、人によっていらつきや怒りを覚えさせることになると思います。その場合には、その理由を考えてみて欲しいと思います。あるいは、ご自身が怒りを感じなかったとしても、他の人であれば怒りを覚えるかもしれないような気がしたら、その理由は何だろうかと想像してみて欲しいと思います。その理由は、それぞれの生命の立脚する基盤が揺らぎ傷ついているからかも知れません。ではその基盤とは何だろうかということを。

2025年9月21日

注1)関連して例えば、ILO(国際労働機関)の1944年のフィラデルフィア宣言にある「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」という言葉なども思い出して欲しいと思います。




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