第6回 適応エリートと変革エリート



  「エリート」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますでしょうか。エリートとは一般的に、「ある社会において優越的な地位を占める少数者を指す(Wikipedia)」とされています。現代の日本なら、具体的には政治家や官僚、企業の経営者層、医師や裁判官や弁護士、研究者や大学教授などの、高度に専門的な職業に就いている人、スポーツや芸術に秀でた人などを思い浮かべることと思います。

 ですが、こうした一般的なイメージとは少し違った言葉で、エリートを語る人もいます。2008年に催された週刊金曜日の15周年大集会において、当時の編集委員の一人であった作家の落合恵子さんは、友人だった慶応大学経済学部教授の河地和子さんと電話で話したときに、エリートについてつぎのようなことで一致したと言いました。

「もし万が一、このひどい時代に、エリートと呼んでいい人がいるとしたら、どんな人を私たちはエリートと呼ぼう。腐臭ただようこのひどい時代に、万が一エリートと呼ぶ人がいるとしたら、私たちはどのような人をエリートと呼ぶだろう。エリートとは志を捨てない人、夢を捨てない人、自分のミッション・使命感をいつも自分で素手で握っている人、まっとうにたたかうことを忘れない人。」

 つまり、落合さんの言うエリートとは、何かの職業や地位で代表されるようなものではなく、確固たる意志に基づく行動によって示されるものであると言うことです。

 かなり以前のこと、何の本に書かれてあったことかは忘れましたが、教育の目的には2つあると言うのを読んだことがあります。そのうちの1つは、この社会に適応していく能力を身に着けさせるため、いまひとつは社会をより良いものに変えていける力を身に着けさせるためと言うようなことだったと思います。仮に前者の能力を適応力、後者を変革力と呼ぶとすれば、エリートには適応力に秀でた者と、変革力に秀でた者の2種類(双方ともに秀でている場合もあり得ますが)が存在すると言ってもよさそうです。そこでこの2種のエリートを、それぞれ「適応エリート」および「変革エリート」と呼ぶことにします。

 そこでもう一度、冒頭でエリートとして思い浮かべた職業や地位と、2種類のエリートとを見比べると、実はいわゆるエリートというのは、多分に適応エリートのことではないのかという気がしてきます。また一方で、落合さんの語った確固たる意志に基づいて行動をするエリートの方は、変革エリートに相当しそうです。

 もちろん、一人ひとりが適応エリートと変革エリートの両方の能力を伸ばすことが出来るのが理想ですが、現実にはなかなかそうは行かないのではないかと思います。なぜなら、適応エリートにとっては、自分が適応した環境を変えないこと、変革しないことの方が、自分たちにとっては都合が良いからです。

 このことは時に、かなりゆがんだ形で現れることさえあります。現在の利権政治などは、その最たるものではないでしょうか。政治には「地盤、看板、カバン」の3バンが必要と言われたりします。地盤のある組織や地域の利益代表者、看板のある世襲政治家、そしてカバンの中身を提供してくれる利権による結びつき。こうした構造を利用しながら(つまり適応しながら)特権的地位に就いた政治家たちや、そこから個別の恩恵を受けている団体に、利権政治の改革、つまり「政治と金の問題」の解決を期待するのは無理がありそうです。

 利権政治という大きな話でなくとも、非合理的な構造が、それに適応したエリートによって維持されるようなことは、日常さまざまに目にすると思います。例えば暴力的な環境に対する適応エリートというのもあると思います。今年の夏の高校野球では部員の暴力事件によって途中で辞退した学校がありました。こうした事件が後を絶たないのは、ひとつには指導する側の問題があるのだろうと思います。指導者自身が暴力に寛容である、体罰などが指導に必要だと考えている、そういうケースが未だにあると言われています。そうなってしまった背景には、指導者が若い頃育った環境にもいじめや体罰のような暴力が日常的にあって、競技の才能のある者や地道に努力する者が体罰でつぶされていく姿を尻目に、むしろ才能がそれほどでなくとも体罰に適応できた人が結果的に残って選手として活躍したということさえあったかも知れません。特に後者のような人が現役引退後も残って指導的立場に就いた場合などは、体罰に対して肯定的な考え方を持っていてもおかしくはないと思います。

 少なくとも私たちは上手いか下手かは別としても、それぞれ自分なりの適応の仕方を持って、この世界を生きています。この時、適応しようとしている社会の仕組み、ルール、理屈、人間関係などは、いわばその人の生命の立脚する基盤だと言えます。そして私たちの正義や秩序に関する認識は、この生きる基盤と大いに関係があるに違いありません。たとえそれが金権政治のようなゆがんだ構造であっても、閉鎖的な空間の中で暴力のまかり通る異様なルールであっても。なぜなら、私たち人間が正しいことをしたがるものなのか、それとも自分が行っていることを正しいと思いたいものなのか、どちらなのかと問われれば、圧倒的に後者だと思うからです。

 自分自身の正義に関する認識がどこから来ているのかを確認することは、私たちが”自分にとって都合の良い正義”から脱却して変革エリートになるための第一歩だと思います。

2025年9月11日




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