第4回 リテラシーについて(2)



  前回の続きです。リテラシーという観点から注意を要するとして、以下の5つの要素を上げました。今回はD以降を説明します。

  @権威主義的である
  A重要な論点に対して論拠が不明確
  B人や組織を単純化した言葉で定義しようとする
  C読み手に不穏な感情を抱かせる
  D意味や概念が不明瞭な言葉を象徴的に用いている

 最後の「D意味や概念が不明瞭な言葉を象徴的に用いている」は、何のことかわかりにくいかも知れません。これの具体例としては、最近ですと「〇〇ファースト」などの政治的なキャッチコピーなどで使用されるような言葉を挙げることができます。「日本人ファーストの何が悪いのか」と言われれば、それもそうだなと納得したくなる気持ちはどこから来るのでしょうか。もしここで、「日本人ファーストと言うときの日本人とは誰のことだろうか」、「日本人なら等しく平等にファーストと扱われるのだろうか」、「ファーストとされる日本人の扱いと、そうでない人の扱いとは具体的にどんな違いがあるのだろうか」などと疑問に思って調べていけば、この言葉の概念がより明らかになるはずです。しかしそういう面倒なことを省略してしまえば、「親が子を、子が親を、家族がお互いを大切にするのが当然なのと同じように、日本人が日本人をファーストに扱うのも当然だ」という感覚で納得してしまうかも知れません。

 こうしたキャッチ―な言葉には、大抵の場合、必要な説明が欠落しています。「日本人」以外にも、「中道」とか「愛」とか「偏っている」とか、もともと概念があいまいで、主観でいくらでも解釈が変わりそうな言葉を具体的な説明もなく使っているものが多いと感じます。

 また、関連してよくあるのが英語などの外国語の多用です。これは英語を使うと何か知的で高級な雰囲気が出るらしいという意味では@(権威主義)とも関係があるし、これくらいの単語は意味を知っていて当然とでも言わんばかりにふるまっているという点ではC(読み手に不穏な感情を抱かせる)とも関係があります。しかし本来、ひとつの言葉の持つ意味の境界というのは繊細なもので、多数の人間が同一の概念を共有するというのは難しく、日本人どうしが日本語で語っていてさえ誤解は生じるものです。英語を母語としない日本人に対して、重要な言葉に英単語を多用するのは誤解のもとですし、あえて誤解をさせたいと疑うべき場合もあると思います。

 以上は、聞き手や読み手の方が誤解してくれるのを待つやり方ですが、それよりももっと積極的に、言葉の概念のすり替えをおこなうケースもあります。以前、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌が流行った頃、歌詞にある「オンリーワン」という言葉も頻繁に耳にしました。もとの歌詞では、誰もがみんなかけがえのない存在であることをオンリーワンと言い、「ナンバーワンでなくてもいい」とさえ言っていたものです。ところがこの言葉を、企業社会で勝ち抜くためにオンリーワンを目指そうといった意味で上書きするのを何度も聞きました。そこで言われるオンリーワンとは、2番も3番もないほど唯一のナンバーワンという意味でした。こうした言葉の概念のすり替え、あるいは言葉の横取りには注意が必要と思います。(注1)

 この概念のすり替えが文章の表題に対して行われている場合、そのタイトルだけ見て流してしまうと、あらぬ印象をいつの間にか植え付けられているということにもなりかねません。それとは別に、耳目を集めるようなタイトルを掲げておいて、その実、表題からイメージされる内容とは異なった主張へと誘導するようなものもあります。

 以上の@〜Dは、いずれも印象操作を手段とし、望ましい結論に心理的に誘導することを狙ったものといえます。これらの要素が含まれているかどうかに注意をすれば、あらかじめ騙されないような情報の取捨選択ができます。いわば簡易的なリテラシーです。

 しかしそのような印象操作を目的としない”まじめな”議論に対しても、やはりリテラシーは必要です。実践は難しいと思いますが、総合的には次の3点が重要と思います。

 a)何が語られているのかを正確に理解する
 b)何が語られていないかに気付く
 c)自分自身について知る

 a)については、特にもとになる重要な情報が事実に基づいているか、および論理は正しいかを判断することです。何が事実と見なせるかということも、論理的に考えるということも、どちらも難しいですね。特に事実については、私たち個人がいちいちファクトチェックをするのはまず無理なことです。しかし、新聞やテレビや雑誌、一般に信頼できるとされている機関や出版社による文献などを通じて日ごろさまざまな情報に触れていれば、おおよその勘所をきたえることはできると思います。

 一方の論理については、(学術論文や信頼できる書籍でなければ)そもそも対象の文書内に論理的に判断するために必要な情報がすべて書かれているとは限りません。その場合には、書かれている情報の範囲で、立てられた仮説が推論として正しいかどうか、他の仮説を立てられる可能性はないのか、出された結論は正しいといえるかなどを判断することになります。もしその結論を否定できないとしても、それとは別の結論を導き出せる可能性があれば、証明としては不十分であることから、正しいか間違っているかという判断は保留することになります。著者が何を主張したいのかは分かっても、その気持ちに共鳴して結論を受け入れてしまうということは避けたいです。 

 b)何が語られていないかに気付くのは、ちょっと難しく、やはり経験の積み重ねが必要と思います。ひとつの情報源に頼らないと言うのが一般的な対処方法となりますが、自分とは立場の異なる主張に向き合うことは、大抵の人にとってストレスになると思います。ですので、先の@〜Dの要素を含むような”余計なストレス”を与えて来るものを避けるようにして、きちんと冷静に論じているものを選んで検討してみるのが良いと思います。

 最後のc)自分自身について知るは、すべての基本になると思います。自分は一体何を知っていて何を知らないのか、どんな心理的傾向を持っているのかと、客観的な視点から自分を理解することが重要と思います。ある文章を読んで、違和感や不快感を感じたとしたら、それはなぜなのか。反論したくなったとしたらそれはなぜなのか。その時に、乱暴な言葉や表現を使いたくなったり、もとの文章の一部の主張を否定することで全部を否定してしまいたいと思ったとしたらそれはなぜなのか。少なくともSNSなどで情報発信する前に、立ち止まって考えてみれば、自分自身が@〜Dの傾向を持つ情報の発信源になることはかなり防げると思います。

 この心理的傾向については、私たちがお互いに解り合うためにも大切なことだと思いますので、今後詳しく検討していく予定です。現在、AI技術の急速な発達によって、フェイクニュースやフェイク動画などが大量に出回るようになってきました。一部の分野領域についてはファクトチェックをするサイトもできつつありますが、だます方はそれ以上に巧みになってきているように思われます。私たちにとって事実とは、結局のところ”事実だと信じていること”です。ならば、私たちが何を信じやすいのか、その傾向を知ることがますます重要になっていると思います。

2025年8月21日

(注1)言葉の概念の意図的なすり替えを利用した詭弁として、上西充子法政大学教授の唱えた「ごはん論法」というのもあります。ごはん論法についてWikipediaでは、「提喩を用いることによって質問に正面から答えず、論点をずらす論法。「朝ご飯は食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」の意味を故意に狭い意味として解釈し、例えばパンは食べたにもかかわらず、「ご飯(米飯、白米)は食べていない」と答えるように、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法である。」と説明しています。

 ごはん論法が厄介なのは、話し言葉での会話では言葉の概念のすり替えに気付きにくく、相手の話のペースに引きずられやすいということです。書き言葉であれば、言葉の概念がどういう風に使われているのかを前後の文章から検証できるのですが、リアルタイムの会話では難しいからです。(だからあくまでも強引に話し合いに持ち込み、文書を出すことを執拗に嫌がる人もいる訳ですが。こうなると、もはや詐欺師の手口ですね。)




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