第39回 ゆがんだ成功体験のもたらすもの
以前、「いじめ中毒と増幅する怒り(第32回)」の話で、いじめやハラスメントが、暴力を伴う言動によって相手を支配することで自らが望むような行動を取らせる手段であり、その目的は、ちょっとした優越感を得ることから、完全に相手を服従させコントロールすることまで、程度の差はあれ、実に利己的で悪質なものであることを説明しました。ですが、まさにハラスメントを実行する側にとっては、その目的を達成することが出来たならば、それはある種の成功体験であるとも言えます。
もう20年くらい前のことですが、関東地方のさる自治体で市会議員をしていた人物に、自身が子供に習い事を教えるかたわら体罰も辞さないことを隠さない者がいました。もともと企業の労働組合で副委員長などをしていたこの人物は、もの申す組合員に対してにらみつけて脅すような態度で臨んでいたことが印象に残っています。この人は威嚇的な態度でもって人を黙らせることができることに味をしめ、「ゆがんだ成功体験」を積み上げてきたのではなかろうかと思いました。そのような態度がまかり通ってしまった背景には、会社と労働組合が一体となって社員を選挙に動員するような人権侵害を許してしまう企業内の環境・習慣がありました。
ハラスメント行為には明らかに中毒性が見られます。脳科学的に言えば、人間は快楽を感じるときにドーパミンという脳内物質が出ていて、これが脳に対する成功報酬となり、同様の行動を繰り返し起こすように促すのだと言います。だから例えば上司が部下に向かって、KPIや納期、クレーム対応や経営危機など、容易に言い返せないような事柄を根拠に、強圧的な態度や怒鳴り声でもって意のままの行動をとらせることができれば、これがある種の快楽を催す経験となって、繰り返すうちに次第に行動パターンとして固まってしまう恐れを感じます。想像すると気味が悪いのですが、おそらくハラスメントをしながら自信ありげな態度でいられる上司などの脳内では、ドーパミンが大量に分泌されているのではないかと思えてきます。
しかし厄介なのは、このようなケースでは往々にして、本人は正しいことをしていると思っているのではないかということです。それこそ会社のため、組織のために、自らを犠牲にして「汚れ役」を買っているのだとの自意識を抱くことで、ハラスメントが合理化されていないでしょうか。そこでの汚い言動は、心の中で自己犠牲という綺麗ごとに転換されてしまって、むしろ自らのナルシシズムを肥やす糧になっているのかも知れません。(「汚れ役」とよく似た自意識に「自分は目的のためには手段を選ばない」と言うのもありますが、これも同様の心理状態に落ち込む危険性があると思います。)
もし当人がハラスメントの一番の問題の所在を、法に触れれば自分や組織に不利益があることだと考えるならば、〇〇ハラスメントに対してアウトかセーフかが何よりも重要になるのだと思います。その一方で、被害を受けた側がどれほど深刻なダメージを受けたのかは、さして重要ではないこととして想像の外縁へ、外縁から圏外へと押しやられていくことになりそうです。結局、ゆがんだ成功体験が続く限り、当人が自然に気づいて反省するのを待つのはあまり現実的ではなく、放っておけばますます悪化する方向に行くと考えた方が良いと思います。
話は変わりますが、私が大学生の頃、博覧会の準備のアルバイトをしたことがありました。やがて博覧会が開幕すると、私と一緒にアルバイトした仲間は市役所の職員の方の案内で、本来なら長時間並ばないと入れない最人気のパビリオンに優先的に入れていただくことができました。館内の入れ替わりのタイミングで裏口から入り、「一番乗り」で好きな席に座って待っていると、しばらくして建物の外の正規の行列に並んでいた人たちが、入口からぞろぞろと入ってきました。その姿を見て、私は何となく優越感のようなものを覚えていました。
ところがそれから数日して、新聞に「行列で長時間待って、やっと入ったら、すでにパビリオン内に座っている人がいた。あの人たちは何なんだ」という投書がされていたことを母親から聞かされ、あっと思いました。裏口から入れてもらった私は、アルバイトを通じて市役所の方と知り合うことで、優先的に入れてもらって然るべき特権を自らの行動によって得たような気になっていました。その誤りに気づかされ、もう二度とこんなことはすまいと思いました。それと同時に、コネによって特別な便宜をはかられることで生じる優越感に恐ろしさも感じました。もし子供の頃から、こんな特別扱いを当たり前のように繰り返していたら、特権的な地位にいることに何の疑問も持たない大人になってしまうのではないかと思ったのです。この件に関する限り、私は新聞の投書と母親から気づきの機会を与えてもらったおかげで、ゆがんだ成功体験の虜にならずに済みました。
たとえ不正を伴う方法であっても、それによって自分の望む結果につながったという経験をすることによって、私たちは不正を不正と思わなくなってしまう(場合によってはより正しいと思ってしまう)傾向があると思います。大事なのは気づきの機会であり、また、不正を許さない環境づくりです。セクシャルハラスメントの中には、衆目のある環境にヌード写真を掲示するような「環境型ハラスメント」と呼ばれる概念があります。これにはヌード写真それ自体を不快に感じる人がいるという直接的なハラスメントだけでなく、性的嫌がらせの言動を招きやすくすると言う間接的な悪影響も問題とされます。パワハラやいじめについても、それらを許すような言動をばらまくことが、環境型ハラスメントになること、一次被害や二次被害の事実をきちんと伝えていくことが気づきの機会になることを覚えておく必要があります。
2026年 9月21日