第38回 成功体験の重要性


 何年か前のテレビのドラマで、「パワハラが人を成長させることもある」というセリフを言い放つ場面があったように思います。こんな言葉を、パワハラの被害を受けた人たちやその親が聞いたら、なんと思うだろうかと思ました。このドラマ自体を私は観ていなかったので、当該のセリフがどういう文脈で言われ、ドラマ全体のストーリーのなかでどう回収されたのか知りません。少なくとも、ただ放言して終わりというのは許されないだろうと思っています。

 この「パワハラが人を成長させることもある」という言葉が危険なのは、世の中にはその通りと思う人が少なからずいると疑われるからです。それが本当に正しいのであれば、認めざるを得ないところですが。

 はじめて就職した会社でパワハラを受けてメンタルを激しく病み、再就職が困難になってしまった若者がいます。パワハラが原因で自殺に追い込まれた事件も、大手電機メーカーやその他の会社で過去に何度も起きています。亡くなってしまった人は、もう成長のしようがないのです。想像力の欠如からか、そういう被害を軽く考えることしかできないのであれば、「そういう人もいるかも知れないが、一方ではパワハラを克服して成長を遂げる人もいる」と言うのかも知れません。だからパワハラも全否定はできないと。

 でも私は、この言葉は大いに間違っていると言うか、根本的な勘違いがあると考えています。答えを言ってしまえば表題の通りで、人を成長させるのは成功体験だと私は考えています。成功体験の前提として障害の存在があります。その克服によって自信を深める過程が成功体験だとすると、パワハラそれ自体やパワハラを受けるような状況というのもある種の障害ですから、何らかの行動によってパワハラが克服されることは一種の成功体験だと言えます。障害や困難に直接立ち向かって自力で解決できた場合はもちろんのこと、誰かと協力して何とか切り抜けた場合であっても、さらには思いがけず何かに助けられた場合であっても、その協力や助けが得られることへの信頼が生まれるのであれば、それもまた成功体験だと言えます。

 つまり成功体験とは、うまく行ったという経験を通じて、障害を克服する方法を学習し、手段を手に入れ、それによって自信を深め、次回さらに大きな障害に挑戦する勇気を涵養するものだと言えます。それが人間の成長ではないかと言うことです。

 繰り返せば、人を成長させるのはパワハラなどの障害(そこには病気や事故、災害、犯罪の被害、戦争なども含まれます)それ自体ではなく、それを克服する過程です。ここを勘違いしてしまうと、パワハラをする上司は部下を鍛えるのに役立っているとか、どろぼうは物の大切さを教えているとか、人殺しは命の大切さを教えているとか、戦争があるから私たちは平和のありがたさに気付くのだとか、おかしな倒錯によって人を傷つける行為に積極的な意味を与え、傷つけようとする者の良心の呵責のハードルを下げて、より犯罪的行為を助長することになりかねません。

 ところで、成功体験の裏側には失敗体験があります。残念ながら私たちは、成功体験だけで人生を満たすことはできないのが普通です。失敗が続くと誰でも自信を無くし、行動が消極的になります。つまり失敗体験の蓄積は、人間を成長から遠ざけてしまうことになります。

 そこでもう一度話をパワハラに戻すと、パワハラを受けるということ自体が、すでに多くの人にとって失敗体験なのは明らかです。繰り返されるパワハラによって、思考が混乱し、自信を無くし、意欲を無くし、心身を消耗し、うつ病になると言うのも、決して特殊なこととは思えないし、事実その事例には枚挙にいとまがないでしょう。

 それならば、私たちは成長過程で、成功体験と失敗体験のどちらを多く経験しているのでしょうか。それなりの人口規模の都市では、1クラスが30人を超える人数で構成されている学校が今でも多いと思います。ひと昔前なら、50人学級と言うのも結構あったのではないでしょうか。それに対して担任は1人か、せいぜい副担任と2人。以前から、学校教員の多忙さは報告されていて、過労死ラインを超えるほど働いている先生が相当な割合でいることが判っています。生徒一人ひとりをきちんと見れないという声もしょっちゅう聞きます。

 一方の生徒の方には格差が広がっていると言います。いま子供の6~7人に1人は貧困家庭で暮らしていると言います。塾や予備校や学習教材には、とにかくお金がかかりますし、家庭の経済状況と学歴との間には、顕著な相関関係があるなど、学業の沙汰も金次第になっていることを「第22回 努力以前に必要なもの」でも触れました。学業だけでなく、習い事や旅行などを含めた体験格差が生じているとも最近はよく聞きます。

 そのような学校の環境と生徒の事情とによる集合教育の場では、いわゆる一握りの出来る子が大いに目立ち、成功体験を独り占めする一方で、多数の子供たちが「その他大勢」として、あまり成功体験を得られないまま、むしろ成功する子の引き立て役のようにされて劣等感を抱きながら過ごしているのではないのかと疑っています。そうした静かな失敗体験が日常化する中で、多数派の子供は学校への帰属意識が薄くなっていき、学校を良い場所にしようという意欲を持てず、何となく学校が自分の居場所とは思えない遠い場所に感じられるようになっていないかと気がかりです。

 部活動などは、先生の負担が大きいことなどから、近隣の民間施設に移行や代替させる活動が進められています。しかし学校内にあるからこそすべての家庭の子供が活動できる可能性がある一方、民間委託すればお金がなくて参加できない子供が出てくるおそれもあります。部活動が子供たちにとっては、授業とは別の成功体験が得られるかもしれない貴重な場だということは忘れて欲しくないと思います。(とはいえ、勝利至上主義では、ここでも一部の子が成功体験を独占する恐れがありますが。)

 実はこれが、日本社会の停滞とも関係があるのではないかと私は疑っています。いま世界では、欧米先進国などで極右勢力が勢いを増している一方で、左翼もまた台頭してきていると言われます。ただしその傾向は国によってまちまちで、若者が希望を持っている国ほど左翼の台頭が著しいと言われています。そう言われれば、日本の左翼がなかなか若者に浸透しないことと、日本の若者に希望が乏しく元気が無いこととは大いに関係があるようにも思えます。

 そしてその元気の無さの主要とも言っていい原因は、人格形成の大事な時期に成功体験を得られる機会の乏しい学校教育にあるのではないのかと思えるのです。そのような観点からも、子供たち一人ひとりを丁寧に見られるよう、少人数学級の実現や教員の過重労働の改善が喫緊の課題であるように思います。

 とはいえ、学校教育にすべての責任を押し付けるのも間違いと思います。現在の電機の職場で広がる圧倒的な格差も、少数の成功者がいる陰で、多数の成功者になれなかった者たちを生み出すという意味で、相当に問題ではないかと思います。単にKPIやノルマを与えて、数値で相対評価をしておしまいでは全く不十分です。インセンティブさえ与えれば、勝手に成長すると思うのは誤りだと私は思います。とりわけ若い社員に対しては、誰もが自分の「持ち場」で、些細なことでも良いから成功体験が得られることを大切にして、能力や自信を高めていけるような教育や指導や制度や労働環境などの仕組みを整えていくことが、今後の企業の人事に求められるように思います。

2026年 9月11日




このページへのご意見、ご感想は以下にお願いします。

ルネサス懇