第36回 罰を止められない


 アメリカのイェール大学で1962年に行われたミルグラム実験というのがあります。これはスタンレー・ミルグラムという心理学者が、普通の平凡な人々であっても、一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明した実験として知られています。

 ミルグラム実験に参加した被験者は「先生」として、生徒に記憶力のテストをする役割を与えられました。(被験者には、参加者を先生役と生徒役の2グループに分けると伝えられましたが、実際には被験者全員が先生役となり、生徒役は役者が務めていました。)そしてもし生徒が回答を間違えた場合には、罰として電気を流すスイッチを入れるよう指示されました。装置はダミーで実際に電気が流れるわけではありませんが、生徒役はいかにも電気ショックを受けているかのように演技をしました。

 被験者は、生徒が繰り返し間違えたら、より強い電圧のスイッチを入れるようにも促されました。一方で生徒役は、わざと繰り返し間違えて、電圧を上げるにしたがって激しく苦しむふりをして見せました。しかしここで被験者の脇に立った白衣の博士風の男が大丈夫だからと言って、引き続き電気ショックを与えるように促し続けたところ、被験者の多くは途中でやめることなく罰を与え続けました。装置の最大電圧は450ボルトで、この電圧では生徒は死に至ることもあると事前に聞かされていましたが、被験者の65%は、結局この450ボルトまで電気ショックを与え続けたと言います。

 ミルグラムの実験は、白衣の博士風の男の権威が、被験者に残酷な行動を促したのだと言います。権威に流されれば、ごく普通の人でも他人を死に至らしめるような残虐な行為をしてしまうことを証明したとされるこの実験は、ナチスドイツの官僚として囚人を絶滅収容所に送る仕事を淡々とこなしたアドルフ・アイヒマンにちなみ、別名「アイヒマン実験」とも呼ばれています。

 この実験は、単に私たちが権威に弱いというだけでなく、もう一つ重要な性質を教えてくれているように私は思います。それは、私たちが誤った行為をしてしまった場合、たとえそれが些細なことでも、改めるのは難しいということです。

 そもそもなぜ回答を間違えた生徒に電気ショックと言う罰を与えなくてはならなかったのでしょうか。この罰は一体何の意味を持っていたのでしょうか。実はこの実験のはじめに被験者には、「罰が学習効果に与える影響を調べるため」というニセの目的が伝えられていました。つまり「罰は必ず学習効果を上げる」という理解のうえで行われたのではなく、本当にそうなのかを確かめるというのが目的でしたから、被験者は罰の効果の確かさについて疑問をはさむ余地があったことになります。現に実験の途中で中止を求めた被験者も少なからずいたと言います。それでも結局多数派の被験者が最後まで続けてしまったところに、輪をかけて恐ろしさを感じるのです。

 はじめは乾電池のような電圧ですから、大した罰ではありませんでした。だから特に気にも留めなかったのかも知れません。やがて気が付いたときには、はっきりと判るくらいの苦しみを与えてしまっていました。ここではっと気づいてやめられるかどうかが分かれ目なのだと思います。

 では、やめられない心では何が起きているのでしょうか。たぶん、罰を通じて苦しみを与えてしまった以上、罰を与えること自体が正しくなければならないと思う方向に傾いているのだと思います。すると罰に学習効果があるかどうかについて、もはや疑問を持つ余地がなくなってしまい、そうでなければならないと思ってしまうのではないでしょうか。そうなれば、学習効果が見られないのは罰の与え方が足りないからだと言うことになります。だから罰を強化する。そして更に重い罰を与えてしまった以上、ますます罰に学習効果が無ければならないことになる。たとえ激しい電気ショックによって生徒が死ぬかもしれないと知っていても、今まで大丈夫だったのだからと過小評価することで疑念や不安を薄めてしまう。そうやって後戻りがますます難しくなっていくと言うことです。

 それならば前回述べたように、現在の日本社会のような、できない者に罰を与えるのが当然と考える風潮の下ではどうなるのでしょうか。罰の効果に対する疑問が持たれること自体が無いのなら、もっと恐ろしいことが起きそうな気がしないでしょうか。できないのは努力が足りないからだ、努力が足りないのは反省していないからだ、反省しないのは苦しみが足りないからだと決めつけ、苦しめなくては気が済まない、苦しまないことが許せないというのであれば、なおさらです。苦しめる行為がエスカレートしていく度に、苦しめられる側に原因があるのだ、苦しむ側が悪いのだとの理屈を反芻することで、心はどんどん硬直していき、苦しめるという行為が本質的に罪であるという事実を認めることが益々できなくなっていきます。

 累計で数万人のリストラ、降格、賃金の減額、手当の廃止、広域配転およびそれによる退職への誘導、一時金のえげつないほどの格差、ベースアップの拒絶、昇給見送り、「追い出し部屋」への異動、再教育プログラムの強制、事実上の指名解雇、それらに付随して行われた執拗な退職強要面談、そして見せつけるかのような経営者の高額報酬。苦しめれば苦しめるほど、もっと苦しめずにいられない姿に私には見えます。そんな心の中では、どんな合理化が行われているのでしょうか。

 20世紀の臨床心理学者のエーリッヒ・フロムが晩年に書いた「悪について」には、人間の心が悪に落ちていく様をチェスに例えた記述があります。ゲームが始まる時点では、白も黒もどちらも同じだけ勝つ可能性があります。ところがゲームが進むに従って、少しずつどちらかが優勢となり、あるところでもう挽回不可能になりチェックメイトを待つだけとなってしまいます。

 だから私たちはチェックメイト寸前まで罪の意識にふたをしたままにしておくのではなく、可能な限り早い段階で気づいて改めなければなりません。私たちはみな誤りを犯すものです。一体どうすれば、それに早く気づいて認めることができるのか。逆にそれを妨げているものは何なのか。その大きな原因には、「行為ではなく人を問う」と言うことがあると考えています。このことは本質に関わる重要な認識と思いますので、機会を改めてお話します。

2026年 8月21日




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