第34回 「罰じゃー」主義


  1988年のドラフト会議で巨人に1位指名され入団した吉田修司投手は、間違いなく一流投手の中に入ると思っていますが、94年の横浜ベイスターズ戦では、1イニング10失点という屈辱的な記録を残しています。通常であれば、ここまで失点する前に交代させられるところなのですが、この時は打たれても打たれても交代してもらえませんでした。

 この放送を私は見ていました。試合を壊したことで首脳陣の怒りを買ったために「罰」として交代させてもらえないのではないかと言うのが、当時のTV放送の解説者の見解だったように思います。そして、このようなやり方をされたら立ち直れなくなってしまうと心配されていたのが印象に残っています。実際に吉田投手はその後、巨人では出番がなく活躍できませんでしたが、同年にトレードでパ・リーグに移籍して以降は、オールスターに2度選ばれるなど、華々しい実績を残しました。

 2023年には、中日ドラゴンズの近藤廉投手が8月25日のDeNA戦でやはり1イニング10失点を記録しました。これは「さらし投げ」という言葉で各誌でも取り上げられるなどの論議となりました。しかも近藤投手は、その翌日には2軍に落とされ、日中の炎天下のグラウンドでライトとレフトのポール間(約150メートル)間を200本も走らされていたと報じられました。この年のオフに近藤投手は育成契約となり、翌24年はファームで好投を続けながらついに支配下に登録されなかったと言います。なお、監督が代わった25年には改めて支配下登録され、一軍での再登板も果たしました。

 上の2つはいずれも、試合で期待に応えられなかった投手が罰を受けた事例です。試合を台無しにするようなピッチングをされて、監督や首脳陣に怒りの感情が生じたとしても自然なことだろうと思います。しかし疑問が沸くのは次の2点です。1点目は、試合が完全に壊れて、しかも当人が深刻な精神的ダメージを受けるところまで放置したのはなぜなのか、2点目は、吉田投手はトレード、近藤投手は炎天下の長距離走と育成への降格という形で、試合からすでに時間が経過した(したがって怒りの激情もおさまっているはずの)後になって、非常に厳しい追加的な懲罰を受けているのはなぜなのかです。何かそこには、単なる怒りとは違う別の感情の存在があるように思えます。

 私たちの社会は、学校教育からして、勉強のできない子に居残りをさせたり、走るのが遅い子に追加で1周走らせるなど、できない者に対して罰を与える習慣が明確にあります。これには、勉強ができないのは勉強が足りないから、走るのが遅いのは走る訓練が足りないから、他の子に追いつくためにはより多くやらせる必要があるのだとの理由を付けられなくはありません。

 しかし実際に自分ができない側になった経験のある方なら、こうしたやり方の無意味さは体感として持知っていると思います。居残り勉強をさせられれば、勉強が嫌いになるだけだし、追加で走らされると分かっていれば、その分も体力を温存せねばならず、一生懸命走れなくなります。もし罰が本人の育成を目的にしているというのなら、実に非合理的です。それでもこのような罰が慣習化しているのは、何か他に理由があるからです。

 結局、本人のためというのは建前で、その裏側にあるのは罰を与えたいと言う欲求です。その欲求を生じしめているのが、できない者への憎しみの感情だと思われます。

 では憎しみの起源はどこにあるのでしょうか。動物としての人間の脳は、病気や弱さを持った構成員のことを集団の存続を危うくする脅威として認識し、嫌悪の感情を抱くように働くようにできているという話もあります。あるいはそんな生物的理由よりも、「虐待の連鎖」のように、生育過程で弱さを許してもらえなかった個人が、同じような弱さを持つ他者を許せなくなるという社会心理的な要素が強いのかも知れません。

 少し余談ですが、この憎しみの感情は、もしかしたら日本人は他の国の人たちに比べて強いのかも知れません。農耕民族として集団主義的傾向があるからというのが理由のひとつです。また、例えば西洋のプロテスタンティズムには、能力的不平等感があると言われます。人間の持ってる能力には生まれつき差があり、成功する人としない人は最初から決まっているのだとする考え方です。反対に日本には能力的平等感があり、努力次第で誰でも出来るようになるはずだとの観念が共有されていると言います。上杉鷹山の「ならぬは人のなさぬなりけり」と言う言葉がそれを象徴しています。つまり出来ないのは本人の努力不足であって、そのせいでみんなに迷惑をかけていると言うことになります。そうなると、罰には努力を促すという役割が与えられることになります。努力をするのは辛いけれども、罰によって努力するよりももっと辛い経験をさせれば、これ以上罰を受けないようになろうと努力するに違いないという予見がそこにはあります。

 今回は、罰を与えずにおれない憎しみの感情について取り上げました。あえて罰という言葉を使いましたが、前回取り上げた会社が人事制度を通じて行うハラスメントには、本人の育成という目的以上に、苦しめることを目的とした懲罰という要素が色濃いように私には思えます。

 罰を与えたい感情や心理に着目するのであれば、他にも増幅する怒りの感情(これは前々回述べました)や、支配欲求、優越意識などがありますが、今回は憎しみという断面から見てみました。いまひとつ、罰を許す雰囲気の存在についても、許す側の心理や、メリトクラシー(能力主義)などの社会的背景など、留意すべき観点があります。したがって個人の憎しみだけが、罰の原因だと言うのではありません。しかし少なくとも言えることは、罰が不相応に苛烈化していくとき、その背景にはほぼ間違いなく憎しみがあるのではないかということです。

 そこで次回は、罰がエスカレートしていく仕組みについてです。

2026年 7月31日




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