第31回 「仕立て上げる」と言うこと
前回まで、賃金に関わることを述べてきました。賃金には他にも重要な観点がたくさんあるのですが、いったんここで中断して、今回からしばらくはハラスメント問題とその周辺的な事柄の方に話題を変えたいと思います。
はじめに少し重たい話をします。私が小学生だった頃のこと、近所の神社のお祭りがあり、氏子の子供たちも大勢来ていました。何人かが神社の周囲の側溝わきに集まっているので、近くに寄って行って見ると、水の無い側溝の底に1匹のアオダイショウがいました。当時アオダイショウはわりとよく見かける蛇で、それこそ自宅に上がり込んで母親を驚かせるなんてこともあったくらいでしたので、毒の無いおとなしい蛇だということも皆知っていたはずでした。
ところが誰かが、これは頭が三角だから毒蛇だと言い出しました。当時の子供向け図鑑では、頭が三角の蛇は毒蛇だと解説していました。すると、周囲の子供たちも、そうだ毒蛇だと言い始め、結局そのアオダイショウは頭を石でつぶされて殺されてしまいました。このアオダイショウは、毒蛇と間違われたから殺されたのではありません。殺す口実を得るために毒蛇に仕立て上げられたのです。すでに小学生の子供からして、暴力の合理化をすることを学習しているということを示す、ひとつのエピソードでした。
私の子供時代は、いわば受験戦争といじめと校内暴力の時代だったと思っています。(もしかしたら受験戦争は現在の方がもっと激しいかも知れませんが。)殊にいじめは毎日学校のいたるところで行われていました。身体的な暴力、悪口、陰口、嫌がらせ、仲間外れ、無視、恥をかかせる、服を脱がす、だます、物を盗む、隠す、壊す、汚す、捨てる、体や持ち物に落書きをする、命令に従わせる、閉じ込める、邪魔や妨害をする、罪をなすりつける、金やものを要求する、「**菌」と言って不潔なもの扱いをするなどなど、あらゆるいじめがありました。ただし当時の子供で、ただひたすら一方的にいじめの対象になる子はわずかで、ほとんどの子はいじめる側も、いじめられる側も経験していたのではないかと思います。
「いじめを止めたいけど止められない、でもちょっと勇気を出して止めよう」という広告のようなものが当時のテレビでは流れていましたが、私は心の中で違和感を覚えていました。いじめと言うのは、ある種のショーでもあって、周囲で見たり聞いたりしている側も楽しんでいることが結構あると言うのは、子供にとって常識だったように思っていたからです。まして大人の世代には戦争中に子供時代を過ごした人も多かったから、子供以上にそんなことはよく知ってそうなものでした。(戦時中の学校では、とりわけ朝鮮半島出身者に対して凄惨ないじめがあったことを、私の親は何度も私に話して聞かせてくれました。)ところが朝日新聞などがいじめを楽しいと感じる心を取り上げたのは、私が成人してかなり経ってからだったように思います。
私たちの年代の少なからぬ人が、「いじめはいじめられる側に原因がある」と言う考えを持っていたことは間違いありません。その考えのまま大人になってしまった人は、私の友人にもいました。また、以前実際に私の職場でパワハラがあったときに、これは問題ではないかという話をしたところ、何人かの人は共感してくれた一方、いじめられる側も悪いと言う人もまた何人かいました。
なぜ私たちは、いじめられる側が悪いという考えを持ってしまうのでしょうか。その理由のひとつはおそらく、さまざまな葛藤から逃れるための合理化であると考えられます。もしいじめられる側が悪くないとしたら、悪いのは一方的にいじめる側であることになります。仮にそのとき自分が直接いじめてはいないとしても、いじめを見て楽しんでいる側だったり、止めようとしない側だったりすれば、やはり正しいなどとは言えません。だから、いじめられる側も悪いとしておかないと、心理的に安心できないのです。
そこで、いじめられる側に何か落ち度があれば、それが悪いということにしてしまいます。もし適当な落ち度が見つからなければ、みんなと仲良くする努力が足りないとか何とか言ってこじつけます。そして、自分はいじめに遭わないために、友達をつくり、明るく、元気に、みんなとうまく付き合う努力をする(してきた)のだという自己認識によって、いじめを止めないことから来る引け目(心理的負債)を反転させて、むしろ優越意識にすり替えてしまうのです。そうして、いじめられたくなければ同じ努力をすればいいのだと言う話でまとめてしまうということです。かくして、いじめられる側が悪者へと仕立て上げられていきます。
この「仕立て上げ」こそは、あらゆるいじめ、ハラスメント、差別、さらには戦争や虐殺を正当化する理屈の根幹をなすものと私は考えています。恐ろしいのは、集団の中で、同じような「仕立て上げ」をしたいという欲求を持つ者どうしによって、これが共有されてしまうと、その誤りに気付くことが非常に困難になるばかりか、その論理が集団の正義にさえなり得るということです。
いま世界では、戦争や差別などによって、おびただしい暴力による被害が起きていますが、そのほぼすべてにおいて、被害者側が悪いとする理屈が加害者側に共有されているのだろうと思います。例えば、イスラエルによるパレスチナ人への大暴虐は、ハマスというテロ組織(実際はイスラエルの侵略に対する民族蜂起のための組織)から命を守るための正当防衛であり、ハマスがガザ地区のどこに潜んでいるか判らない以上、それが疑われる場所であれば、病院だろうが学校だろうが空爆をして差支えなく、ハマス以外の人々は一緒にいるかぎり巻き添えをくらっても仕方が無いのだと言ったような理屈です。
つまり私たちは、個人や集団をある理屈で「仕立て上げる」ことさえできてしまえば、どんな大暴虐でも実行できてしまうものなのだと思います。日本人とて例外ではありません。関東大震災時の朝鮮人(と疑われた日本人を含む)への大虐殺などは、それを如実に証明しています。だから私たちはみな、自分自身が誰を、何を、どういうものに「仕立て上げ」ようとしているのか、それはなぜなのかを知らなくてはならないのだと思います。
2026年 7月 1日