第3回 リテラシーについて(1)
前回の文章の中で、「ファクトチェックされないネット情報が社会問題になっている」と書きました。この連載も第三者からファクトチェックされているわけではないので、意図せず私自身が”でたらめ吹聴屋”になってしまう恐れがないとは言えません。そうならないように、重要な論点に関する論拠については可能な限り確認しながら書いていきたいと思います。
さて、ネットの情報は玉石混交で、誤った情報や、偏見にもとづくものなどが多分に含まれることを理解しておく必要があることなどについては、いまどきの子供たちが学校で学習していることでもあります。(文部科学省やこども家庭庁のサイトから、関連の資料を見ることができます。)とはいえ、何が正しくて何が間違った情報なのかを見分けるのは、大人でも難しいことです。この見分ける能力のことをリテラシーと言います。
リテラシーをWikipediaで調べたところ、「元々は『書き言葉を、作法にかなったやりかたで、読んだり書いたりできる能力』を指していた用語」と書かれていました。そして20世紀には、「放送メディアが発達し、人々はそれらの影響を大きく受けるようになったが、そうしたメディアで情報操作や世論操作が行われ、様々な問題が生じることが増えるにつれメディア・リテラシーの重要性が説かれるようになった。一段高い視点から、『送り手の悪しき意図を見抜き、流されている情報をそのまま鵜呑みにせず、その悪影響を回避する能力』まで指すようになっている」のだそうです。
「送り手の悪しき意図」と言いますが、必ずしも悪しき意図でなくとも、ネットや各種メディアの情報の送り手は、受け手に対して何かを期待しているものです。昨今では例えば、SNSを積極的に使った政党が得票を伸ばすといった現象が顕著に現れています。これは不特定多数の有権者からの支持を期待してのもので、政党としては当然のことであり、その限りにおいては(有権者に事実誤認をさせるなどの意思がない限り)悪しき意図とは言えないものです。では悪しきかどうかに関わらず、何らかの意図をもって発信されている情報に、私たちはどう対処したらいいのでしょうか。
そこで、情報によって本来自分の望まない形での操作をされないために有効と思われる観点を、いくつか列挙したいと思います。以下の要素を含むものには、注意が必要と思っています。
@権威主義的である
A重要な論点に対して論拠が不明確
B人や組織を単純化した言葉で定義しようとする
C読み手に不穏な感情を抱かせる
D意味や概念が不明瞭な言葉を象徴的に用いている
@権威主義的というのは、権威の力をもって主張する内容を信じさせようとするものです。例えば、専門的な事柄なので素人には理解できないとか、自分は特別な立場に就いている、情報網を持っている、あるいは技術を持っているから、一般人が知り得ないレベルの情報にアクセスすることができるというようなものです。権威の主体が自分自身であることもあれば、何か別の人物、団体やその象徴である場合もあります。ネットの情報には、文章の表現からして傲慢、尊大なものも少なからずあります。やたら難しい言葉や固い表現を使っている文章を読むと、この方は誰を読者と想定しているのだろうか、もっとやさしい表現ができるのではないか、本当に理解して欲しいと思っているのだろうかと疑いたくなります。そのほか、大袈裟な表現や粗雑な言葉づかいのもの、攻撃的だったり、軍国主義的な言葉を好んで使用するもの、トリビア的な知識をばらまくもの(”知の巨人”であるかのように錯覚させたい?)なども、ちょっと注意した方が良いと思います。
A重要な論点に対して論拠が不明確というのは、特に説明はいらないと思います。例えばルネサスの場合、勝ち残りのためにリストラも定期昇給見送りも必要だと会社が繰り返し主張していますが、その具体的な論拠は一向に説明されないままです。かつてナチスの宣伝部長だったゲッペルスは、「うそも100回言えば真実になる」と言ったと伝えられていますが、その言葉を思い出します。
あと、付け加えるなら、例えばもし一般的に知られていない文献や参照の難しい資料などを論拠にする場合、その内容ついて必要な説明は添えるべきで、そうした当たり前の手間はかけて欲しいと思います。
B人や組織を単純化した言葉で定義しようとするというのは、簡単に言えばレッテル貼りのことです。自分とは異なる主張をする特定の人や組織について、その言動の一部を切り取ったり、属性の一面を取り上げ、ときに誤解や拡大解釈を加えたうえで、彼には能力がないとか、悪意を持っている団体であるとかの印象を与える言葉でくくって、だからそんな彼らの主張は間違っているとか、信じるに値しないとか、主張する資格そのものがないという形で全否定してしまうようなものです。この「人や組織を定義する」というのは、あらゆる差別の原点となることでもあり、その悪影響を過小評価してはいけないと考えます。それから、ネットの記事やSNSには、誰かを「バカ呼ばわり」するものがあふれていますが、これもバカというレッテル貼りの一種と捉えられます。このことについては、別の機会に詳細を述べないといけないと思っています。
C読み手に不穏な感情を抱かせるというのは、主張に従わなければ、何か悪いことがあるかのように想起させるか、または逆に主張に従うと良いことがあるかのような印象を与えるものです。「裸の王様」を思い浮かべていただければ、イメージしやすいかと思います。仕立屋が「その地位にふさわしくない者には見えない服」と言ったために、王様も側近も、見えるふりをしてしまいました。(この場合、その地位にふさわしくない者と定義するという面では、Bとも関係があります。)文章中に”こんなことは常識だ”といった言い回しを盛り込むのが好きな発信者もいると思いますが、これは”知らない人は常識が無い”と暗に言うことで、(ある一定数いるはずの)知らない人に発言をためらわせたり、読み手を”知っているつもり”に誘導したりする意図があるのかも知れません。
こうした心理操作の最たるものはショック・ドクトリンです。ショック・ドクトリンとは、ナオミ・クラインが2007年に著した著作のタイトルであり、「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」を意味します。この応用として、人々に激しい不安や恐怖の感情を与えて、それによって世論の誘導を図るというやり方が、国家による大規模なものから、一企業によるものまで、さまざまな場面で見られると思います。ルネサスでは、「勝ち残り」をしなければ破滅するかのような印象を与えながら、リストラを正当化していますが、これもショック・ドクトリンの応用と見て良いと思います。
長くなりましたので、D以降については次回とします。
2025年8月11日