第26回 努力神話と格差の問題
CEOだけベースアップ。

ルネサスの有価証券報告書は、役員報酬についても報告しています。柴田CEOの過去6年間の報酬は上表のように推移しています。基本報酬のみに注目しても、2020年に5千3百万円だったものが、2025年には1億1千3百万円になっています。5年間で6千万円もアップ。年平均で1千2百万円という、すさまじいベースアップです。社員のベースアップは一切行わないというのに。
賞与は、基本報酬の125%を標準としています。2025年度はウルフスピードの経営破綻に基づく特別損失によって最終赤字でしたが、それにもかかわらず標準を上回る128%に相当する1億4千5百万円となっています。
これらに株式による報酬である莫大なLTIが加わっています。LTIは株価に連動していますから、社員をリストラし、ベースアップも行わず、賃金原資にできたはずのお金をむしり取って配当や自社株買いの原資に付け替えても、それで株価が上がればLTIは増えます。社員を貧しくすればするほどCEOはモウカる報酬形態になっているということです。「ペイ・フォー・パフォーマンスを徹底する」と言いますが、これがパフォーマンスと呼べるのでしょうか。
さて、ここ数回にわたり、成果主義賃金に関連して努力に関する話を続けてきましたが、今回が最後です。
努力について長々と論じてきたのは、高い収入が努力の結果だという「神話」が、相当程度に広まっていると感じているからです。ますます肥大するCEOなどの高額報酬も、あるいはその延長線上で理解されてしまいかねません。だから決してそうでは無いということを示したいと思いました。すると今度は、高額報酬は仕事の市場価値によるものだと言う意見があるかも知れないので、それも違うようだ(市場価値と言うより、株主を儲けさせたお礼である)と言う話もしました。ところが、それならばCEOのような地位に就くことに多大な努力があったはずだと言って、また元に戻って「努力」が持ち出されてしまうかも知れないため、努力とは何かという話を掘り下げたのです。
こうした努力にまつわる「神話」と、それが私たちの意識の中で格差を是認する根拠のひとつとなってしまうことについて、2つの観点から制限をかけておきたいと思います。
1つは、努力を過小評価しないための制限です。
企業のCEOが、「頑張った人が報われるべき」と言うとき、その頑張りとは、企業内における「役割」の大きさに成果をかけたものであり、その成果をもたらすために各自が相応の何かの努力を行ったとの推量であるようです。その役割の大きさとは、損益に対しどれだけの影響を与えうる存在であるかという意味であり、成果とは利益のことです。すでに利益というものさしで努力の大きさが測られている段階では、具体的に何を頑張ったのか、そこにどんな辛苦があったのかの説明は、ほとんど求められません。つまり、労働力という商品の一部と化した努力は、その内実ではなく、成果によってその量が測られるものとなり、内実は成果から類推されるものに逆転してしまうのだと言えます。(努力した者が成果を出すのではなく、成果を出した者が努力したことになる。)
しかしもし成果を上げた人が相応の努力をしたに違いないと類推するのであれば、反対に成果の上がっていない人は努力をしていないことにされてしまいます。下手をすれば、怠けてさぼってふざけて遊んでいたから成果が出ないのであり、低賃金は自業自得だという話にされてしまいます。これは当人の尊厳にかかわることであり、人格に対する侵害となる危険性があると私は思います。
前回の話を復習すると、努力は本来人それぞれ固有のもので、異なる人どうしでは比較できないはずのものでありながら、これを無理に測ろうとして何か共通のものさしを持ち出すと、本当の努力がどこにあったのか、本当は何で苦労をしていたのかが、自分自身でさえも見えなくなってしまう恐れがあると述べました。自分が本当は何で苦労したのかを改めて思い出すことは、また他人が自分とは異なる経験や苦労をしているということへの想像も促します。その積み重ねが、私たちの生活を真にラクにすること、社会における広義の成果につながっていくものと思います。
もう1つは、努力を過大評価しないための制限です。
利益が努力の反映であり、利益の大きさに連動して報酬が与えられるという構造が何となく人々の間にも承認されていけば、その延長線上として、全社の莫大な利益に貢献したCEOは、10億円の報酬を得ても正当化されるかのように錯覚されかねません。それでも年収10億円のCEOが年収1千万円の課長100人分努力したかと問われれば、そんなことはないだろうと考える人が多いと思います。私たち社員の間の賃金格差と、社員とCEOとの激しい格差とは、意味の異なるものです。
10億円などという金額は、もはや本人の必要でもなく、また社会の必要でもなく、「あちらのCEOがこれだけ貰っているのだから自分も」といった様な、自己満足や存在証明のためのものになってしまってないでしょうか。そんなつまらないもののために、高額報酬を用意してあげることはないでしょう。
アダルトビデオの監督で有名な村西とおるさんが以前、格差について次のように語っていました。
「お金を持っているか否かは、運ですよ。宝くじに当たったようなもの。ソフトバンクの孫正義さん、ユニクロの柳井正さんのようなお金持ちが我々の1万倍の努力をして、1万倍の収入を獲得したんなら尊敬しますよ。でも、他人以上に努力したといっても、せいぜい3倍が限界ですよ。だって、みんな同じ1日24時間なんですから、物理的に無理です。だから、お金を持っている人を尊敬するなんてことは、私の人生ではあり得ないね」
せいぜい3倍というのは、結構しっくりこないでしょうか。次は「21世紀の資本」の著者として世界的に有名なトマ・ピケティの「自然、文化、そして不平等」から引用します。(同書63~64ページ)
「では個人の主観や選んだ職業・職種の多様性、さらに経済社会的組織におけるインセンティブ上の必要性からして、どの程度の所得格差なら妥当と言えるだろうか。1対3、1対5程度であれば、目標に照らしてまずまず及第と言えるだろう。一方、1対50のような格差は、歴史上のさまざまな事例が示すところからしてもとうてい正当化できない。」
ピケティは、格差の根拠として努力だけを比較している訳ではありませんが、それでも1対3、1対5なら十分とは言わないまでも「まずまず及第」と表現しました。
結局、CEOの億円単位の高額報酬は努力の反映などではなく、モラルという観点から考える限り正当な根拠のないものに違いありません。まして、こうして得た報酬を全部自分のために使うなど論外です。次回は「もらった報酬は全部好き勝手に使っていいのか」です。
2026年 5月 1日