第24回 努力のものさしと自分神話
前回は勉強が必ずしも努力とは言えないことについて述べました。一応繰り返しますが、恵まれない環境で一生懸命苦学してきた人がいることを軽んじている訳ではないので、そこは誤解しないでいただきたいと思います。
おそらく私たちは、自分や他人が本当は何の努力をどのくらいしたのかについて、多分に誤解をしているのではないかと言うのが、今回の話の内容です。
このコーナーでは、努力を「精神的、肉体的な負荷を伴う行動によって何かの目的を成し遂げようとすること、およびそこに直接・間接に費やした資源(精神的・肉体的なエネルギーや時間、場合によってはお金も)のこと」と定義しました。つまり努力には苦労が伴うということです。だから私たちは、その苦労が報われて欲しいとも思う訳です。しかし、何に苦労するかは人それぞれで、したがって何にどのくらいの努力が必要かも、人によって全く異なるのが事実だと思います。だから、もしお互いに理解しようと言う気持ちがあれば、相手のことを自分とは異なる経験や感性を持つ存在であることを前提として、想像しようとするはずです。
ところが、努力した者が多くを得るべき、努力しなかった者は得られなくても仕方が無いという価値観が社会にはびこって、各人の努力の多いか少ないかを無理やり「客観的な指標」を用いて判断し、優劣をつけ、それをもとに資源の配分を変えてやろう、格差を付けてやろうということになってくると、お互いに違いますねとは言っていられなくなります。自分の努力が他人の努力よりも上回っていることを、指標にもとづいて証明する必要が出てきてしまうからです。本来、努力は異なる人の間で比べられるはずのないものであるにも関わらずです。
例えば勉強については、時間と言う共通の「ものさし」によって、注ぎ込まれた努力の量を測ると言ったことが起きます。勉強時間が1日12時間の人は、10時間の人よりも努力したと言えるかとの問の答えは、今回までに論じてきたさまざまな内容を考慮すれば明らかに「No」ですが、これが単純に数字のみの比較によって「Yes」になってしまうのです。現に大学の予備校などでは、「1日に12時間以上だ」「いや13時間だ」などと受験生を焚きつけてもいます。このスレッショルド(基準となる勉強時間)を下回ったら、もはや努力でさえないかのようにされてしまいそうです。嫌が上でも比較される環境が、私たちをして、自分の努力を過大評価、他人の努力を過小評価したいという欲求を生じせしめるからです。
時間で測るのならまだましかもしれません。人によっては「結果に結びつくのが努力だ」と言います。そうなると、もはや13時間だろうが0時間だろうが、結果が出なければ努力そのものが無かったということにされてしまいます。社会的なステイタスとなり得る「結果」、たとえば学歴や就職先や資格の有無というようなもので、努力の程度や有無を決められてしまいかねません。
努力のものさしが分かりやすいものであればあるほど、そのものさしでは測れない多様な要素は、ことごとく捨象され、私たちの視界から消えて行ってしまう恐れがあります。そして、見えなくなるのは他人の苦労だけでなく、自分の苦労も同様だと言うことです。他人に説明可能なストーリーで自分を語ろうとしているうちに、自分が本当は何に苦労してきたのかさえも忘れてしまうという様なことが起きるのではないかと思います。
いま厄介なのは、入学試験や入社試験の面接等で、自分が何者かを説明する必要性があることです。何を頑張ったか、何に苦労をしたかと言う話を求められることも多いでしょうし、その時には他人に分かる形で話さないといけません。よほど雄弁な人でなければ、社会一般で共有していると思われる努力や苦労の概念を前提に話さないと、試験に受かるのは難しいと感じてしまうでしょう。しかし、まだ人格形成の途中にある若いうちから、このような訓練をさせられてしまうと、かえって自分自身に対する理解が妨げられはしないかと心配します。あまりにも他人に通じる話に自分を合わせすぎてしまって、誤った自己認識に基づく「自分神話」を作り上げてしまうのではないかと思います。自分で自分を誤解してしまうということです。
他人向けに語れる苦労話の裏側には、決して語りたくない話が誰にもあるものだと思います。それは他人には容易に理解されないと思えることであったり、むしろ自分でも恥ずかしいと思っている話であったりですが、実はそのような事柄の中にこそ、その人固有の苦労が隠れていることも大いにあり得ると思います。
話が漠然として分かりにくいかも知れませんので例をあげます。まだ駅の自動改札が普及し始めたばかりの1980年代のことですが、明治生まれのさる豪傑のおばあさんが初めて自動改札を通ろうとしたところ、なぜかフラッパーが勢いよくバタンと閉まってしまい、それ以来おそろしくて、電車に乗れなくなってしまったというエピソードがありました。日々何気なく自動改札を通過している私たちには、このおばあさんの感じていた怖さは理解できないと思います。でも、大抵のことには怖いもの知らずだったおばあさんにとって、自動改札は確かに大いなる脅威でした。このように私たち固有の苦労というものは、まさに他人には理解しがたい、あるいは大いに過小評価されてしまうものの中にこそあるのではないかと思います。(だからこそ、苦労するということでもあります。)
私たちがお互いにそういう繊細な面を抱えた存在であると認識することは、ダイバーシティ(多様性)を尊重する上での出発点であると私は思います。
2026年 4月11日