第23回 勉強することは努力なのか
リーマンショックの頃の話になりますが、2009年の3月末に製造業で大量の派遣切りが実行され、電機メーカーからもあまたの労働者が職を失うという痛ましい出来事がありました。ところが社内の労働組合関係の集まりで交わされた会話では、解雇された労働者への同情よりも、むしろ自己責任ではないかと言う方向に話が進んでしまうと言ったことがありました。東京都内のある有名私立大学を卒業した女性は、受験のため1日12時間勉強していたと話しました。自分は相応の努力をした結果として正社員としてここに居るのだと言う訳です。すると隣に居たやはり都内の有名私立大学を出た30代の男性も、学生時代に遊んでいた同級生のことを話題に出しました。派遣になったのは努力をしなかった本人が悪いのだし、だから派遣切りで解雇になっても自業自得だという方向に話の流れが向かってしまい、私は困惑しました。
2003年の労働者派遣法の改定によって製造業への派遣が解禁されたのは、経済界からの要請だけでなく労働組合たる電機連合が賛成していたからでもあります。そこには工場労働を正社員から派遣社員に置き換えることで人件費を安く上げて企業の利益を増やし、業績悪化で工場の稼働率が落ちれば雇用の調整弁に使うという目論見がありました。つまり、大量の派遣切りの生じた原因の一端は、明らかに電機連合にもあったと言うことになります。したがって上記2名の会話は、自分たちの労働組合の責任で起きている事象を、当事者たる派遣労働者の責任のみに転嫁している訳ですが、会話をしていた当人たちには、おそらくその認識が無かったものと思います。
前回述べたことを繰り返すと、大企業で正社員の地位に就くまでには、本人の努力はあったとしても、それ以上に環境や素質に恵まれたことが大きいだろうと言うのが私の考えです。特に現在でも就職に大きな影響を与える要素である学歴については、勉強という形で努力のできる人は恵まれている方で、むしろ勉強できる状態に至らないところで多大な努力を強いられている人が多いというのが実態だと思います。ここではしかし、たくさん勉強してきた人は何の苦労もなく全面的に恵まれていたのだと言いたいのではありません。むしろほとんどの人が、程度の差はあれ困難な状況を複合的に抱えながら、それらの克服や忍耐など、何らかの形で適応をせざるを得ない中で、苦労して勉強しながら成長してきたのが事実だと思います。その点をこそ思い出して、想像力の明かりをもって、いつもとは少し違った場所も照らしてみませんかということです。
先上げた2名が、勉強することを努力と考えていたことは間違いありません。反対に、勉強しないことを怠惰であるとも見なしていたようです。しかしそれは、どこまで正しいと言えるでしょうか。
例えば、子供の頃から勉強が出来て、親や教師にほめられ、周囲からちやほやされてきた人にとって、勉強は自分の価値を高めてくれるものです。繰り返し誤解の無いようにお願いしたいのですが、勉強のできる人がみな子供の頃ちやほやされていたと言っているのではありません。むしろ精神的虐待を受けながら、むりやり勉強に駆り立てられていたというケースも少なくないはずです。ただ定性的にはできない子と比べてポジティブな動機付けを得られる機会が多かったのではないかということです。勉強が出来るからこそ、新しいことを知ることも楽しくなり、もっと知りたくなり、さらに出来るようになるということもあると思います。
しかしその裏側には、それとは真逆の子供たちがいます。勉強ができないために親や教師から否定的な言葉を浴びせられ、劣等感を持った子にとっては、勉強が自らの価値をおとしめる元凶となっています。「勉強のできないあなたは、できる他の子と比べて価値が低い」と明に暗に言われていると感じながら勉強に向き合うのはとても辛いことです。勉強を大事だと思えば思うほど、それが出来ない自分を価値が無い人間だと認めざるをえなくなってしまうからです。本棚に並ぶ教科書の背表紙を見るだけでも苦しいと思うかもしれません。それでも何とか教科書を手に取り、開き、2、3ページ読むとしたら、その間にも大量の心的エネルギーを使ってしまうに違いありません。しかもそれで理解が進むわけでもないとしたら。この苦しみの先に何かの幸福があるなどとは到底思えないばかりか、勉強し続けることの苦痛であれ、勉強ができないことで余儀なくされる不利益であれ、どのみち自分には不幸な未来しか訪れないという絶望的な気持ちにさえなるかもしれません。
勉強のできない子の中には、確かに勉強をせず、授業中も上の空だったり、宿題を忘れたり、試験前でも遊んでばかりで、はた目にはとうてい頑張っているようには見えない子も少なからずいると思います。ですが、その子たちの表情の裏側にある葛藤や傷ついている心へ、少しでも想像力を向けて欲しいと切に願っています。それは、「できない子も本人なりに頑張れば良い」という「励まし」の言葉をかけてくださいということではありません。それはどんなやさしい言葉で表現しても、できない子を劣った子と見なしているのは明らかであり、内実は勉強で人の価値を測る価値観を前提にした考えに服従させることだからです。(注1)そうではなく、勉強ができない子は「全方面的にできない子」ではないと言うこと、まして能力の劣る子でも価値の無い子でもないと言うことがきちんと理解できるようになることこそが、私たちに求められる最低限の努力であり、本当の勉強ではないのかと言うことです。
2026年 3月31日
注1)関連して、ダイヤモンドオンラインに掲載された記事も参照していただきたいと思います。
(https://diamond.jp/articles/-/367109)この記事は、音楽家のヒャダインさんのエッセイ(「体育科教育」2019年3月号(大修館書店)の巻頭に掲載)を参照しています。内容は体育教育に関するものですが、その本筋は学校の勉強一般についてもあてはまるものと思います。