第17回 売上高や利益では、社会貢献の大きさを測れない理由
成果主義によって、「成果を上げた分だけ報酬をもらうのが当然」という考え方は、相当程度に私たちに浸透しているように思います。そこで前回は「成果」とは何かを確認し、一般に私たちの意識の中では、「成果」が企業の売上高や利益を通じて社会貢献とも結びついているのではないかと言うことを述べました。
今回は、たとえ企業の事業が(軍事用途などとは違って)純粋に私たちの生活を豊かにするように思えるものであったとしても、やはり売上高や利益を上げることと、社会に貢献することとは一致しないということについて述べます。その理由を2つあげて簡単に説明するなら、ひとつはそれらのもとになるお金の価値が一人ひとり違うからであり、いまひとつは社会に与える(悪)影響のすべてがコスト化できている訳ではないからとなります。
第一の理由について、例えばこんな例はどうでしょうか。1年で10億円の報酬を得ている会社のCEOが、年末休暇前の最終日に1本5万円の高級シャンパンをAという酒屋で買って帰ったとします。別のBという酒屋では、同じ会社の主任・担当クラスの一般社員10人が、1本1000円のスパークリングワインを買って帰ったとします。酒屋Aの売上は5万円、酒屋Bの売上は1万円ですが、この場合、酒屋Aの店主は酒屋Bの店主の5倍人を幸せにしたでしょうか。直観的にそうは思えないでしょう。なぜそうなるのかと言えば、CEOと一般社員とではお金の価値が異なるからです。もしかしたら一般社員の中には、1000円のスパークリングワインをとても幸せな気分で飲んだ人もいたかも知れません。5万円のシャンパンを飲んだCEO以上に。
困窮している者にとっては千円でも大金ですが、お金持ちにとっては10万円でもはした金かも知れません。これが会社の売上高や利益の大きさと、社会への貢献の度合いとが、必ずしも一致しない理由となります。どのような人がどのくらい必要としてそれを買ったかで違いが出るからです。そして定性的に言えば、社会の格差が拡大すればするほど、この不一致の度合いも大きくなることになります。
このことは実は決して小さくない問題です。例えば、バイオエネルギーの原料となるトウモロコシやサトウキビなどの生産が、食用の作物の生産よりも優先的に行われたために、食用作物の高騰を招き、貧困層の生活を圧迫したことが問題となったことがあります。これは突き詰めれば、どちらが高く売れるのかということが原因です。購買力のある層の志向あるいは嗜好に基づいて社会の生産のあり方も変わり、それによって貧しい者は生活に必要な物資を購入することがより困難になる構造があります。ここで上げたバイオエネルギーの例などは、温暖化対策としては正しいことをしていると言う見方も可能なだけに、問題のありかに気づきにくくなってしまいがちです。
第2の理由の、社会に与える(悪)影響が必ずしもコスト化されていない問題は、前世紀から公害問題などで明らかでした。汚染物質を工場内で処理することなく大気中、水中、土中に放出してしまえば、企業は処理コストを削減できますが、社会は多大な不利益を被ります。水俣病然り、東日本大震災における原発事故然りです。(注1)企業という枠の内側は儲かり、その外側が損をするような構造のことを、内部経済・外部不経済と言います。この構造を克服するには、外部不経済となる部分をコスト化して、しっかりと企業に負担させる必要があります。しかし現実には、コストを正確に見積もるのは極めて困難ですし、どういう形で負担させるのかという問題もあります。
同様の構造は労働問題でも多く見られます。社会に暮らす人々は多様であり、企業活動に適応しやすい人と、適応しにくい人がいます。適応しにくい人とは、例えば心身に病気や障がいがあるとか、育児や介護や看護などで家族的責任を有しているとか、生育環境や受けた教育が不利なものだったとか、被差別集団や社会的マイノリティーに属しているとか、さらにそれらが複数絡み合うなど様々です。適応しやすい人だけを企業が雇用すれば、それだけ企業は多くの利益を上げられるかも知れませんが、一方で適応しにくい人がきちんと生きていくためのコストは社会が負担することになります。これもまた内部経済・外部不経済です。本来は、法人税率を高くすることで企業に間接的に社会的コストを負担させるとか、雇用に関する規制を強化するなどの対策が必要なはずですが、グローバルな競争を理由に、むしろ逆方向に向かっているのが現実でもあります。
こうして企業は本来負うべきだったコストを負わずに済み、その分だけ利益を上積みできるということになります。付け加えるなら、自主的に社会的コストを負おうとする企業は、競争不利になってしまうという面さえあります。
第14回で紹介したナンシー・フレイザーの議論に立ち返るならば、まさにこのコスト化されないということでもって、資本主義が人の命、人権、自然環境から収奪することが可能になっているのだとも言えます。
以上、前回と今回の話を通じて、成果主義賃金における「成果」と密接な関係のある利益とは何だろうかということについて述べました。「成果」によって賃金に著しい差を付けることが本当に正しいと言えるのかどうかを考えるうえで、ひとつの判断材料としていただければと思います。
2026年 1月21日
注1)ここで言っているのは、最近の処理水放出の話ではなく、その根本原因となった津波被害がなぜ起きたのかということです。島崎邦彦 「3.11大津波の対策を邪魔した男たち(2023年3月31日 青志社)」によれば、東日本大震災よりも前の2008年3月18日の時点で、「原子力発電所の津波評価技術(津波評価技術)」をもとに福島原発を高さ15.7メートルの津波が襲う危険性があることが計算されていました。(実際の津波は15.2メートルだった。)当時の敷地の高さは海面から約10メートルだったため、そのままでは津波被害を受ける危険性があるため、防潮堤の敷設などによる対策が必要なことが判っていました。ところが実際は、対策の代わりに15.7メートルという計算の根拠となった津波評価技術の方を見直そうということが行われ、対策がなされないまま震災を迎えたと言います。