第16回 賃金と利益と社会貢献の関係について
第14回まで数回にわたって「フリーライド」をテーマに取り上げ、それが結局は資本主義社会におけるあくなき利益追求と密接に関連した収奪構造であることをお話しました。払うべきものを払わずタダで利用したり、その分を収益に変えるなどは当然問題ですが、では利益を追求すること自体が果たしてすべて悪いことなのでしょうか。むしろ利益を追求して競争するからこそ社会は発展するという考え方もあります。そこで今回から春にかけては、この利益追求を是とする考え方と、それに連動させられている私たちの賃金について話を進めていきたいと思います。
いまルネサスを含む日本の大手電機系メーカーに現役で勤めている方はほぼ全員、入社したときからすでに成果主義の要素を多分に含んだ給与体系が適用されていたことと思います。つまり、定期的な査定によって「成果」の大きさを測られ、それに基づいて一時金(賞与)を増減させられたり、昇給額に差があったりと言った形で、賃金の差別化が図られてきました。私たちは、こうした賃金制度しか知らずに会社員生活を過ごしてきたのですから、賃金を「成果」の対価であると考えていても不思議ではありません。と言うよりも、それは事実、実感としてその通りであったと思います。
賃金が「成果」の対価であると言うのは錯覚であり、正しくは労働力の対価(注1)だと言う方もいるでしょう。私たちが労働力を再生産するのに必要な額で賃金が決まるのだと。仮にそうだとすると、労働力の再生産に必要な額がなぜ、どうやって成果主義と結びつくのでしょうか。
成果という言葉に、「」を付けました。成果とは何なのかが、そもそもあいまいだと思うからです。では「成果」を私たちはどう認識しているのでしょうか。おそらく多くの人にとって「成果」とは、第一義的には「業務目標の達成度」のことであるに違いありません。個人の業務目標は通常、KPI(重要経営指標)などで定義される会社や職場ごとの目標と一致するように設定されていると思います。そして大もとになっている全社のKPIなどには、売上高や営業利益などの基本的な経営指標が含まれるのが通常です。したがって私たちは、会社の売上高や利益にどれだけ貢献したかをもって「成果」と考え、その一部を社員へ還元する制度として成果主義の賃金制度を理解していると思います。
会社がお金を稼ぐことに貢献し、その貢献の程度に合わせて報酬をもらうということには合理性があります。もし私たちが、会社と個人との契約関係の中でのみ賃金を考えていて、会社の事業の中身や、他の労働者や社会に与える影響などを一切気にしないのであれば、それで良いのだとしてこの議論は終わりになるのでしょう。でも私たちの多くは、単に会社が儲かれば良いとは思っていないのではないでしょうか。会社が事業活動を通じて社会や人々の役に立つことを暗黙の前提にしているからこそ、売上高や利益が増えることはその活動がうまく行った証であるとして、「成果」とみなすことができるのだと思います。
1970年にアメリカの経済学者のミルトン・フリードマンは、「企業の社会貢献とは、利益を増やすことと、株主に高い配当を出すことだ」と言う主旨の論文を出したと言います。フリードマンの定義は実にシンプルなのですが、それを鵜呑みにする前に、利益が増えるとなぜ社会貢献になるのか、なぜ高い配当を出すと社会貢献になるのかについて、その前提となる条件は何なのかなど、それこそ丁寧な検証が必要とされます。少なくともこのフリードマンの言説は、依然として新自由主義的な思想が強力な影響を与えている世界において、人々の生活を顧みない身勝手な企業行動を促す元となったとされています。だから事はそんなに単純ではないはずです。
企業を単に「金儲け機関」であるべきとするかつての考え方を、現代の私たちの多くは受け入れないに違いありません。繰り返しますが、自社の提供する製品やサービスは広く世界の人々の生活を豊かにできるはずのものであり、それらが市場で選ばれた結果として売り上げが伸び、利益が上がるのならば、売上高や利益は社会への貢献度を測る指標でもあると考えているのではないでしょうか。さらに、利益を得たことで再投資が可能になり、もっと良い製品・サービスを造ることができるし、法人税を納めることを通じて社会に還元もできます。何より赤字が続いては企業活動そのものが出来なくなります。
ところが、この点をさらに注意深く再検討すれば、残念ながら会社の行う事業や企業行動のすべてが社会に対する貢献とは言えないのが現実であることも見えてきます。したがってその結果としての売上高や利益もまた、社会貢献の指標とは必ずしも言えない状況が浮かび上がってきます。それにはいくつか理由があります。
もちろん、詐欺や悪徳商法で儲けているケースなどは論外です。しかし、そうではなくても軍事関係や原発、むだな箱モノや公共事業など、社会に暮らす人々の必要よりも事業者の利益が優先されているようなものに、大手電機メーカーも多数関わっています。軍事関係は安全保障のための、原発はエネルギー自給や脱炭素のための手段として必要なものとされ、箱モノや公共事業も何らかの理屈で正当化されている訳ですが、その根拠は大いに疑ってかかるべきものであると私は思っています。(注2)
ではこうしたグレーゾーン(?)の事業とは別の、私たちの生活を直接豊かにすると思われる民生用途ならどうでしょうか。しかしこの場合でさえもまた、売上高や利益で社会貢献度を測ることは必ずしもできないようです。その理由は次回述べます。
2026年 1月11日
注1)賃金には、「労働の対価」と言う言葉と、「労働力の対価」という言葉があります。この違いも重要なのですが、ここでは詳細は触れません。興味のある方は調べてみてください。
注2) このコーナーでは、軍事用途や原発を絶対悪とすることを当然の共通認識として議論を進めようとしているのではありません。その逆に、根拠も不明確なままこれらを絶対に必要なものと決めつけることもしません。