第15回 日本半導体はなぜ発展したのか(2)



 前回に続き、日本の半導体産業がなぜ発展したのかについての後半です。

 日本がアメリカに比べて競争優位となった理由として、資本調達コストの低さに関する指摘もあります。(注1)半導体の生産には、研究開発投資や工場や製造装置などへの設備投資などに莫大な資金調達が必要ですが、その点において日本企業の方が有利だったとするものです。なぜでしょうか。

 敗戦後の日本は、GHQによって財閥が解体されましたが、その後まもなくして、メインバンク(中心となる大銀行)との株式相互持合いをする企業集団として財閥が再編成されました。三菱電機はその名の通り三菱財閥系ですし、NECは住友系、東芝は三井系など、各財閥が大手電機メーカーを系列に抱えていました。また、それらの企業は財閥の中核企業として、メインバンクから長期で安定的な資金調達を受けることができ、積極的な投資が可能となりました。前述のように、日本の半導体産業は大手電機メーカーの部品調達部門でしたから、資金調達と製品の買い手の両方で大手電機の恩恵を受ける格好になりました。つまり財閥を中心とする系列の中に守られる形で発展することができたと見ることができます。

 しかし発展の理由の中心になるのは、やはり技術面での躍進であると思います。日本の半導体産業が技術面で大きく飛躍したのは1970年代です。牽引したのはDRAMでした。DRAMはもともと、1970年にアメリカのインテルが最初に製品化した記憶装置です。70年代前半まで、後発である日本のDRAMはアメリカ企業より劣っていました。しかし1976年に半導体分野における世界初の共同研究開発コンソーシアムである「超LSI技術研究組合」が、官民一体のプロジェクトとして立ち上がったことが、日本の技術発展を大いに促しました。(注2)この共同研究プロジェクトの成果として、最先端のDRAMなどを高歩留で製造する技術、露光装置の国産化、高純度で大口径のシリコンウェハーを安定して製造する技術など、重要技術の確立がありました。

 これらの成果をもとに、1976年に登場した16KビットDRAMからは、アメリカ製とほぼ互角に勝負が出来る様になりました。次の64KビットDRAMは1978年に富士通が世界で初めて製品化に成功し、同年に製品化した日立は1981年に世界シェアの40%を獲得するところまで売上を拡大したように、国内各社がしのぎを削りながら、日本製DRAMが急速にシェアを奪っていきました。一方でアメリカ企業は、IBMやヒューレットパッカードなど自社向けのコンピュータ用に内製する企業を除いて、この分野から撤退していく事になりました。実質的にライバルの居なくなった日本企業は、1980年代半ばには世界シェアの8割近くを占めるほどとなりました。

 日本製のDRAMがアメリカ製からシェアを奪うことができたのは、当時のDRAMの主要な用途がメインフレームのコンピュータだったことと関係があります。高性能かつ大変高価なメインフレームに使用するメモリですから、同様に高性能であることが必須の条件で、実に25年間壊れない品質を求められていたとのことです。日本製のDRAMは、この厳しい基準をクリアすることができ、その技術的優位性のためにシェアを獲得できたのだと言います。(注3)

 現在、半導体製品にはDRAMやフラッシュメモリのような記憶素子、MPUやマイクロコントローラなどのロジック系、GPUやイメージセンサのような特定の機能に特化した半導体、パワー半導体、リニアICからディスクリートまで、さまざまな種類があります。ちょうど「車」と言っても普通乗用車、スポーツカー、バス、トラック、バイク、自転車などが存在するように、半導体も80年近い歴史の中で分化が進んできました。これらの多様な半導体は、プロセスノードもまちまちで、最先端の製造プロセスを必須とするものもあれば、30年以上前の技術で製造可能なものもあります。そうなると、製造に使用する装置だけでなく工場自体が別になります。しかし1980年代の頃はまだ製造面での分化は現在ほど進んでおらず、メモリもロジックもリニアも同一の工場で生産することが可能でした。

 この当時のDRAMは、先端の微細加工技術の面でも、製造設備への投資の面でも、他の半導体製品を牽引する役割を果たしていました。最先端DRAMの開発と量産化につぎ込んだ設備や研究開発への莫大な投資は、その後のDRAM自身の大量生産によって回収されたのですが、それからマイクロコンピュータやゲートアレイのようなロジック系半導体を少し遅れて立ち上げることで、こちらは初期投資を抑えながら利益を上げることが出来ました。現在はサムスンやSKハイニクス、マイクロンやキオクシアなどは、ほぼメモリ系の専業会社となっていますが、当時は複合的な半導体製品を同一会社が手掛けることについて生産面からも合理性がありました。(注4)

 以上、2回にわたって日本半導体がなぜ発展したのかを振り返ってみました。

 ここまで上げた以外の理由として、20世紀後半はまだ先進国と言える国が少なく、現在のようにアジアの新興国の台頭以前でしたので、競争相手が比較的少なかったことも上げられると思います。それから、日本の防衛予算が低く抑えられてきたことも産業全体の発展には大いにプラスだったと言います。一般に軍事用途は、経済の再生産に寄与する割合が低いためです。あと、あまり評価はしたくないのですが、半導体産業に携わってきた多数の技術者達が、日々あたりまえのように超長時間労働をしていたことも、技術開発のスピードを加速させる要因だったかも知れません。

 なお、半導体の発展の歴史において日本人の貢献は、DRAMだけでなく多岐にわたっていたことも一言添えておきたいと思います。トンネルダイオードやNAND型フラッシュメモリは日本人の発明です。世界初のマイコンi4004の開発にも大いに貢献しました。半導体を支える材料技術や製造装置の開発しかり。決して外国の技術の猿真似で発展したのではありません。過大評価は慎むべきですが、過小評価をすることもないでしょう。(注5)

2025年12月21日

注1)クリス・ミラー 「半導体戦争(2023年2月14日)」133ページ 「1980年代、連邦準備制度がインフレ抑制を試みると、アメリカの金利は21.5%まで上昇した。 対照的に、日本のDRAMメーカーの資本コストはそれよりもはるかに低かった。」これ以下、日本の半導体メーカーが財閥の一部であったことから、アメリカ企業以上の負債を抱えていても長期で資本を調達でき、競争相手が破綻するまで待ち続けることが出来たと言ったことが書かれています。

注2) 当時のアメリカでは、このような企業横断的なコンソーシアムは、独占禁止法(反トラスト法)に照らし違法となっていました。アメリカは日本の成功を見て、対抗するために独占禁止法を適用除外とする国家共同研究法を1984年に制定し、1987年のセマテックへの布石としました。

注3) 微細加工研究所の湯之上隆CEO兼所長が、2021年6月1日に衆議院の科学技術特別委員会にて参考人として意見陳述をされた際に、このような高性能のDRAMを日本が製造できたこと、当時1個10~20万円という高価で売られていたことなどを述べられました。この模様はYouTubeで視聴することができます。

注4) 当時の半導体事業は大手電機メーカーの部品供給が主目的でしたので、まずその点から多様な半導体を手掛ける必要がありましたが、その要請がそれほど足かせにはならなかったと考えられます。

注5) 日本の半導体産業発展の歴史を知りたい方には、「日本半導体歴史館(https://www.shmj.or.jp/)」のサイトをおすすめします。


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