第13回 ケア労働の対価は誰が払うべきなのか
前回は、家庭におけるケア労働などに対して、なぜ誰も対価を払ってくれないのか、あるいは誰が対価を払うべきなのかという問いで終わりました。
対価が払われていないということについては、 「いや、そんなことはない。専業主婦(夫)などは、外で働いている配偶者が稼いだ給料で養なわれている(注1)のだから、その給料の中に含まれているのではないか」と言う人がいるかも知れません。これはある程度正しいです。過去を振り返れば、日本でも欧米でも、第二次大戦後間もない頃は男性が家庭における主要な働き手でしたので、主婦を含む家族の分の生活費も賃金に含むという思想がありました。
日本の場合ですと、1946年10月に労働組合が獲得した「電算型賃金」に、その具体化を見ることができます。この電算型賃金では、給料構成の7割近くが生活保障給となっていて、また2割は家族の人数によって変わる家族給となっていました。こうした賃金のあり方が、戦後の賃金体系の原型として私たちの属する電機産業を含め、一般に普及して行きました。
ルネサスグループ連合の上部団体である電機連合も、その賃金政策において、「生活保障の原則」と「労働対価の原則」を二大原則とする方針を一貫して掲げてきました。そして生活保障の原則の実現にあたっては、多重的な施策が提案されてきています。箇条書きすると次のようなものです。
①産業別最低賃金は年齢とともに上がる構成にして、生活費の上昇に連動させる。
②家族手当のほか、住宅手当、地域手当など生活に関わる手当を設ける。
③30歳の総合職や35歳の工場労働者などのように、基準となる賃金モデルを作って会社に要求し、
そこから大きく逸脱してこぼれ落ちる労働者が出にくいようにする。
④安定的な収入分である月例賃金を重視する。
⑤一時金(賞与)は5カ月を基準とし、4カ月を生活防衛のためのミニマム基準とする。
⑥完全有資格者(欠勤をしていない労働者)の一時金は平均の80%以上にすべきとし、
成績が低いことなどを理由に著しく低い一時金にされて生活が圧迫されるのを防止する。
⑦最低賃金の要求額や一時金の4カ月などは、ストを行う歯止めの基準とする。
しかし生活保障給というのは、家族の生活に必要なお金を保障するものですので、ケア労働などの労働の価値に対して支払われるべきお金とは異なった概念です。専業主婦の家庭内ケア労働の価値に関する試算はさまざまですが、年間で2百万円くらいとするものから1千万円を超えるというものまであります。それらの数値のどれが妥当なのかは分かりませんが、いずれにしても、生活保障給として支払われている金額では、家庭内ケア労働の対価としては不十分であることは間違いなさそうです。では、その差分は誰が負担すべきなのでしょうか。
そこで考えるのは、家庭内のケア労働の生み出す価値の恩恵を誰が受けているのかです。この価値は、単にその家庭の構成員の中で消費されて終わるものではありません。家庭で主婦(夫)が食事の支度をし、洗濯や掃除、その他の家事をすることは、外で賃労働をする配偶者の日々の生活を支えて、継続して働けるよう心身の回復を促すものです。主婦(夫)がこれらケア労働の大半を引き受ければ、配偶者は長時間残業や休日出勤をすることも可能となり、単身赴任さえもできるようになります。また、子育てをすることは、単に自分たちの子供の育成に必要だというだけでなく、社会に次世代の労働力を供給していく前提ともなります。加えて、これらケア労働に必要となる製品やサービスの供給が、企業にとって大きな市場となっている面も見逃せません。
つまり、これらケア労働が無ければ、私たちは日々の生活(生命)の維持も次世代の育成もできず、ひいては企業活動を含めた社会の継続ができないことになります。あらゆる企業活動は、結局はこの基本の上に立脚しているのであって、その恩恵を常に浴し続けています。むしろ、エッセンシャル・ワークよりももっと基本的に私たちの社会を支えているのが家庭内のケア労働です。したがって、「受益者負担」の理屈を持ち出すのであれば、企業は少なからずその対価を支払うべき責任を免れないということになります。
ところが、現実はどうでしょうか。ルネサスでは家族手当を廃止し、さらに生活保障給と言う概念さえも忘れ去ろうとしているように見えます。(上に箇条書きした①~⑦が近年のルネサスでどんどん掘り崩されていることに気付くと思います。)
こうして見てみると、ルネサスが家族手当を無くしたことや、賃金に「ペイ・フォー・パフォーマンスを徹底する」と言っていることなどは、とても危険な兆候に思えてきます。それは結局、家族手当だけでなく、私たちの給料の中に含まれている家族を支える部分と見なされている部分の否定につながり、もっと言えば私たちがまともに生きていくのに必要な賃金を保障することの否定にさえなり得るからです。つまり電機連合の「生活保障の原則」は完全に無視されることになります。
こうした傾向は今後も続き、会社は生活保障に関わる部分を賃金に含めない方向に、ますます変えていくのではないかと恐れます。その根本には「労働の対価」という言葉の意味についての解釈の違いがあると考えられます。私たちにとって労働の対価とは、私たち自身が労働に注ぎ込んでいるものと、労働することを可能にしている前提を成り立たせるのに必要なものとを指しています。しかし企業にとって労働の対価とは、労働の成果の対価であり、成果とは結局、利益のことかも知れないからです。この労働の対価とは一体何なのかについては、いずれ別項を立ててお話します。
さて、家族を養う立場にある人に十分な賃金を払っていなかったとしても、最低賃金を守っていれば体裁としては違法ではありません。では最低賃金さえ払っていれば、問題はないのでしょうか。この点については、法務省が2021年にまとめた『今企業に求められる「ビジネスと人権」への対応』において、「使用者が法律で定める最低賃金額に関わらず、労働者とその家族が基本的ニーズを満たすために十分な賃金(生活賃金)の支払いを行わないこと」を人権に関するリスクとしています。つまり企業は、法定最低賃金を守ってさえいれば良いということではなく、家族構成や社会環境に適合するような水準の賃金を払わないのなら人権侵害の疑いがあるというのが現在の社会通念です。
以上をまとめます。家庭におけるケア労働の対価は、今のところ明示的に払われていません。労働者の給料には、家族のための生活賃金として支払われている部分もありますが、ケア労働の対価として十分な金額とは言えません。しかしケア労働が私たちの社会を成り立たせ、あらゆる企業活動がそれに立脚し、その恩恵を享受し続けていることに鑑みれば、その対価を負担する責任を企業は免れないはずです。ところが企業は支払いを増やすどころか、むしろますます減らそうとしている様でさえあります。このことには人権侵害の疑いさえ生じます。
ではどうすればいいのでしょうか。企業に負担を求めるにあたっては、直接的な賃金での支払いだけでなく、間接的な賃金も考慮に入れるべきと思います。つまり、法人税や社会保険料などを通じて、広く社会に還元する仕組みも重要だということです。いずれにしてもこれは社会設計における問題です。(注2)それで具体的にどうするかについては、ここでは結論を急がないことにします。
2025年12月1日
注1) 「養う」という言葉の危うさについては、いずれ別項で述べます。
注2)法人税や社会保険料と言う形で負担させる部分が必要だとする根拠は、賃金に含めるとすると企業間格差が生じてしまうことや、追加のコストがかかる社員を企業が採用したがらないといった理由だけでなく、企業は自ら雇用する社員の家庭内労働だけから直接恩恵を受けているのではなく、広く社会を通じて恩恵を受けているからということにあります。しかし、だからと言って、家族のための賃金を払わなくていいということではありません。そのような仕組みが社会に不十分(低い法人税率や、脆弱な社会保障制度など)の状態であれば、それに応じて賃金としての負担を企業に要求し、公的な仕組み造りに企業の参加を促すという方法を考えなくてはなりません。
また、生活保障給や家族手当以外にも、残業代の割増率をもっと高くするなど、別の観点から求めるべきものもあると思います。