第12回 ノーワーク・ノーペイとフリーライド



  今年の10月7日、高市新総理の就任演説において、「ワークライフバランスという言葉を捨てる」という発言があり、これが波紋を呼びました。もちろん、総理大臣や国務大臣が誰よりも一生懸命働くことについては、多くの国民が当然のこととして期待しているだろうと思います。しかしなぜここでワークライフバランスという言葉を持ち出さないといけなかったのかについては、政府の進めてきている働き方改革の行方とあわせて疑念を持たれています。残業時間規制の緩和をする意図が新内閣にはあるらしいからです。

 ワークライフバランスという言葉が普及し始めたのは、2000年頃だったように思います。企業においてはCSR(社会的責任)の一環として、社員の生活にも配慮することが望ましい企業行動であるということで、ポジティブな概念として捉えられています。しかしワークライフバランスというのは、それ自体が違和感を覚える言葉だと私は思います。と言うのも、家事にしろ、育児にしろ、介護にしろ、それらはすべて紛れもない「ワーク」でありながら、この言葉の中では「ライフ」の方に入れられているからです。つまり、まるで家庭の仕事がワークではないかのようにすり替えられたうえで、会社はライフにも配慮しますよという話になってしまっていると感じます。

 過去2回のフリーライドの議論から明らかと思いますが、実はこの言葉における「ワーク」とは賃労働のことを指していて、一方の「ライフ」とは、無賃労働や、地域やコミュニティを支える労働、自分自身をケアするための労働の3つに該当します。したがって本当は「ワークワークバランス」と言う方が適切ではないかと私は思います。それをあえてワークライフバランスと言うとき、ワークとライフは対等ではなく、あくまでワークを損なわない範囲でライフも大事にされるべきという共通理解を前提にされているように思えるのです。それこそは前回論じたように、賃労働が上位にあり、残りの3つが従属的になってしまう構造と重なります。

 そこで、ライフに押し込められてしまっているワークの実態をイメージしやすくするために、少し具体的なモデルケースを考えてみます。例えば、小学生以下の子供を抱えて会社の仕事と家庭の仕事の両立に忙しい方もいると思います。例えばこんな感じです。

 まず朝起きてすぐに洗濯機を回し、朝食の支度を始め、一緒に子供が保育園に持っていく主食の用意をします。子供を起こして、体温を測り、ご飯を食べさせ、服を着せるまでが結構時間がかかります。(年齢が上がるにつれて知恵がついてきて、TVに夢中で食べるのが遅くなったり、服のえり好みをして出した服を着なかったり・・・。)そして寝具を片付け、洗濯物を干し、保育園への連絡帳に記入し、その他の持ち物を整えます。どんどん過ぎていく時間に焦りながら、自分の身支度もそこそこに、ゴミをまとめて出して、保育園に向かいます。保育園に着いたら、コップと歯ブラシ、ふきん、エプロン、紙おむつ、昼食の主食、連絡帳などの一式を所定の場所にセットして、昼寝用の布団にカバーをかぶせ、それから会社に出勤します。

 会社では朝から夕方まで仕事をして、退勤したその足で保育園や学童保育などに子供を迎えに行き、子供と一緒にスーパーに寄って晩御飯の食材を買って帰ったとします。帰宅したら洗濯物を取り込み、夕御飯の支度をして、子供たちに食べさせ、お風呂の掃除をしてお湯を張り、その間に保育園の連絡帳や学校からのプリントなどを確認し、宿題をさせたり、勉強をみてやったり。その後子供たちをお風呂に入れて、寝かしつけ(ここで添い寝でもすると、疲れているため眠ってしまいそうになり、そこからもう一度起きるのが結構きつかったり)、そして食卓を片付けて食器を洗い、洗濯物を畳んで引き出しにしまい、簡単に部屋の片づけと掃除をして、明日の朝のご飯の炊飯器をセットしてと言った具合です。

 しかもここまでは毎日する仕事ですから、いわば日常生活の”ベースライン”と呼ぶべきものです。ここに、いろいろと行事や習い事への対応、PTAや父母会の仕事、子供の病気・体調不良や、その他もろもろのイレギュラーな対応が加わります。だから時短勤務なら楽だろうなんてことはありません。さらに配偶者が協力的か、それともただの”大きな子供”かで、負担のありようが激しく変わってきます。まして、シングルマザー(ファーザー)だったり、配偶者が単身赴任をしていたりすると、もう毎日が「ワンオペ」状態で、会社の飲み会など参加できないばかりか、風邪をひいて寝込んでいることさえできません。

 上記はあくまでイメージしやすくするため核家族を例にしたモデルケースであって、現実は子供のいる家庭でも実に多様です。とはいえ、時短勤務をしている人がフルタイム社員以上に仕事をしているというのは、大いにあり得ることを知っておいていただきたいです。しかしそのハードワークの半分は職場の同僚から見えていません。

 私の知っている話では、子供を迎えに行くために時間通りに退勤する日常にならざるを得ない時短勤務の社員が、会社の飲み会の日に何とか都合を付けて出席すると、「普段は仕事を周囲に押し付けて自分だけ早く帰るのに、こういう楽しい場だけは出て来るのか」と陰で嫌味を言われたという例がありました。そうなってしまう背景には、単に家庭での仕事が見えていないというだけでなく、会社でする仕事(ワーク)が家庭での仕事(ライフ)に優先するということ、つまり会社の仕事をきっちり終えてから家庭の仕事に移るのが筋だという価値観が共有されてしまっていることが根本にあるのだと思います。(もしそのような時短勤務の社員の陰口を、退勤後に立ち寄った飲み屋などで同僚と話題にすることがあったら、自分たちが酒を飲んでくつろいでいるまさにこの時、その陰口を言われている方は家庭の中で忙しく働いているかもしれないということを想像してみて欲しいと思います。)

 さて、前回、ルネサスの家族手当を巡る議論で「ノーワーク・ノーペイ」の原則を会社が持ち出したという話をしました。しかし「ノーワーク・ノーペイ」であるならば、逆に「ワーク・フォー・ペイ(仕事に対しては対価を払う)」でなくてはならないはずです。ところが家事や育児や介護は明らかに実態のあるワークであるにも関わらず、ノーペイです。専業主婦(夫)はもちろん、時短勤務の社員であっても、賃金として支払われるのは会社で勤務した時間見合いとなっています。そしてそうなる理屈もまた、ノーワーク・ノーペイです。なぜでしょうか。家庭におけるこの重要なワークに対して、なぜ誰も対価を払ってくれないのでしょうか。あるいは誰が対価を払うべきなのでしょうか。次回はそれを考えてみたいと思います。

2025年11月21日





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