第11回 フリーライドの重層構造



  今回はフリーライドに関する2回目として、資本主義社会に存在する重層的なフリーライド構造について考えてみます。前回(第9回 4つのフリーライド)では、4種類の労働(賃労働、無賃労働、地域やコミュニティを支える労働、自分自身をケアするための労働)それぞれに対するフリーライドを定義しました。そしてこの4種のフリーライドは対等では無く、より上位の構造が下位の構造から労働の成果を吸い上げる仕組みがあり、この上下関係というのが結局は格差や不平等と結びついているのだということを話しました。この点について、もう少し詳しく見ていくこととします。

 これらフリーライドの対象となっている4つの労働のうち、もっとも上位にくるのが賃労働であることは間違いありません。その主な理由は2つで、1つは私たちが労働を通じて賃金を得なくては、まともに生きていけないことです。しかしそうでありながら、賃労働に就けるかどうかも、どれだけの賃金が得られるかも確かではなく、人によって大きく差があるというのが、もう1つの理由です。つまり生きるために必要な賃金を稼得できるかどうかには、大きな個人差があるということです。

 そうなると、稼ぎが無い、または少ない人が、稼ぎの多い人に経済的に依存せざるを得ないという構造ができてしまいます。たくさん稼げる人は、もし可能なら賃労働を優先するために、無賃労働や地域やコミュニティを支える労働を誰かに肩代わりをしてもらうか(他者へのフリーライド)、または自分自身をケアするための労働を諦める(自分自身へのフリーライド)というのが、一般的な行動原理になっていきます。場合によっては、自分自身をケアすることを無賃労働や地域やコミュニティを支える労働よりも優先させるといったこともあり得ます。例えば、会社の帰り道に居酒屋に寄って酒を飲んでくつろいでいる同じ時間に、配偶者は家で家事や育児や町内会のための仕事をしているといったようなことです。そのことによって配偶者の方は逆に、自分自身をケアするゆとりを無くすと言ったことにもなりかねません。

 ところで企業には、労働者をできるだけ長時間働かせたいという意思がありますから、もし抱えている労働者が上記のようなフリーライドをすることによってより長い時間を会社の仕事に費やせるのなら、是非そうさせたいとなります。つまるところ、資本主義社会には必要労働時間を超えた剰余労働に基づく搾取構造があると言われますが(注1)、その剰余労働時間を増やすことを可能にしているのが、こうしたフリーライド構造であると言えます。したがって、労働者に対する搾取は、剰余労働による直接的なものと、剰余労働の長時間化を可能にする別の労働へのフリーライドという間接的なものとの両方を通じて行われていることを見る必要があります。

 ここでちょっと思い出して欲しいのが、ルネサスの人事制度の変遷です。2014年の人事制度改定では、家族手当を「ノーワーク・ノーペイ、純粋な労務の対価としての報酬でない」として廃止しました。しかしその妥当性については、本稿で述べるようなフリーライド構造を見る必要があります。男女雇用機会均等法が成立したのは、今から40年前の1985年です。しかしそれで男女差がなくなった訳ではなく、実際のところ30年くらい前(日立、NEC、三菱電機だった時代)までは、結婚すると女性の方が「寿(ことぶき)退職」するのが普通でした。ここには、女性の側に家庭を支えてもらうことで、男性が外で長時間働けるようにしてもらうという構図がありました。退職して専業主婦になった配偶者に対しては配偶者手当が付きましたが、主婦の労働に見合った金額とは到底言い難い不十分なものでした。つまり主婦労働へのフリーライドに対する申し訳程度の”お返し”だった訳です。まして、その家族手当さえも無くすとなると、主婦労働へのタダ乗り構造をまったく無視しているように見えます。(注2)

 話を戻すと、上述のように4つのフリーライドの間には重層的な構造があります。さらに、賃労働に対するフリーライドの中身を見ていくと、その内部にもまた重層的な構造があることに気づきます。高賃金を得ている労働者は、日常生活から働くための時間をより多く捻出するために、低賃金労働を利用する割合が高くなります。食事は外食で済ませる、移動にはタクシーを利用する、育児に保育施設やベビーシッターを利用する、子供の勉強は塾や家庭教師に委託する、老親の介護は施設に預ける、買い物は通販と宅配で済ませるなどなど。「時間をお金で買う」と表現する人もいますが、正確には買ったのは時間ではなく低賃金労働の成果物です。これらは対価を払っているのだからフリーライドではないと思われるかも知れません。ではなぜ代金を支払う余裕のできる高賃金の仕事に従事する労働者と、ほぼ一方的に買われる側となってしまう低賃金の労働者がいるのでしょうか。(注3)

 現在、同じ日本人でも、著しく高い賃金を得ている者と、低い賃金しか得られない者の格差は相当に大きくなっています。その原因に不公正や不平等があることは確かです。「同一労働同一賃金」または「同一価値労働同一賃金」の原則に照らせば、正規と非正規、男性と女性などの属性の違いによる賃金格差は不公正・不平等そのものです。加えて、高賃金の仕事に就ける可能性が、人によって全く異なるという不平等もあります。そうであれば、高賃金を得ている者が低賃金労働の成果物を買うときに支払っている現在の対価は、本当は安すぎるのかも知れず(間違いなく安すぎる場合が多いと思っていますが)、本来あるべき対価との差がフリーライドだと言える可能性があると思います。この本来あるべき対価とは何かについては、別の機会にじっくり検討しなくてはなりません。

 まとめると、収入の多寡による経済的な格差は、フリーライドする者とされる者との非対称的な関係をつくりだし、稼ぎの多い者が必要とするときには、より稼ぎの少ない者の労働にフリーライドするのが合理的であるとする考え方になっていきます。そしてそれはフリーライドされる者の自由を奪い、尊厳を傷つけることにもつながります。

 また、そのうえで考えなくてはいけないと思うのは、ケア労働などの価値についてです。今回、賃労働がもっとも上位に来るということから議論を進めてきました。ですが、そもそも自分自身をケアする労働というのがゼロになってしまったら、本人が生きることができません。家庭でのケア労働もまた然りで、これが無かったら家族の生活はおろか命さえ存続が危うくなります。地域やコミュニティを支える労働も、これが無ければ社会はとても生きづらいものになります。だからこれらは無くせないし、結局誰かがその役割を果たさなくてはならないということになります。本質的に重要な労働がなぜ下位に置かれなければならないのか。そこに問題の本質があるように思います。

2025年11月11日

注1) 必要労働時間とは、労働者が受け取る賃金に相当する価値を生産するのに必要な時間のことです。言い換えれば、労働者は必要労働時間に生産された価値の分しか賃金を受け取っていません。例えば、1日8時間労働のうち、必要労働時間が2.5時間だとすれば、残りの5.5時間のことを剰余労働時間と言い、この剰余労働時間に生みだされた価値は会社に入ります。これが会社が利益を上げる仕組みだというのがマルクス経済学による説明です。

注2) 配偶者の労働に支えられながら、申し訳程度の「家族手当」を支給して良しとするような制度自体が、大いに差別的(主に男女差別的)で問題のあるものだったことは確かです。しかしそれを廃止するのであれば、この差別的な構造そのものを改めることと一体である必要があります。例えば労働組合としては、長時間残業そのものが無くなり配偶者にしわ寄せする必要がなくなるような労働環境が整備されるまで家族手当は必要だと主張するのが、ひとつの戦略として考えられます。

注3)こうした買われる側の低賃金労働というのは、多くがいわゆる「エッセシャル・ワーク」と呼ばれるものです。エッセンシャル・ワークとは、社会を支える不可欠な労働のことで、具体的には医療、介護、育児、教育、生活必需品の供給販売、物流、その他の社会インフラ関係(電気、上下水道、ガス、交通、ごみ収集など)、メディア、行政、金融といった、社会機能を維持する労働のことを指します。しかしこうした労働の多くは、社会に絶対に必要でありながら、低賃金労働となっています。この問題については、今後別項で取り上げます。



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