第10回 日本半導体はなぜ発展したのか(1)
連載10回目となる今回は、半導体に関する話題の第2回目となります。今回のテーマは、そもそも日本の半導体はなぜ発展したのかについてです。
「日本の半導体の復活」という観点からの著作は、これまで多数出版されています。特にここ5年くらいは、政府の半導体政策への注力などの影響もあってか、次々に新しい本が出てきています。これらの著作の多くは、日本の半導体企業が90年代以降、徐々にシェアを落としている傾向を捉えて「衰退」「凋落」「失敗」「敗戦」と言う言葉で形容し、再度シェアを取り戻すことを是とする観点から書かれている印象です。こうした議論の前提にある認識は、昔は良かったが今はダメだということかと思います。でもそのような見方をしている本を何冊も読んでいると、何となく過去をあまりにも持ち上げすぎてしまったり、逆に現在を卑下しすぎてしまったりといった方向に私たちの意識が行ってしまいかねないような気もします。
それから最近の傾向として感じるのは、なぜ衰退したのかと言う議論に重点が置かれ過ぎていて、それ以前になぜ発展できたのかという議論が比較すると少ないのではないかということです。なぜ衰退したのかを考察するのであれば、なぜ発展できたのかの検討も欠かせないでしょう。発展を促した要因が判れば、それが無くなったから衰退したのだと言う推論も成り立つと思えるからです。これまで出ている様々な論考を否定するつもりはなく、それらをおさらいしながら、こういう視点もあるのではないでしょうかという事柄を追加することが出来れば良いと思います。
まず基本的に、過去の歴史を振り返れば、半導体産業の国家レベルでの栄枯盛衰は、純然たる技術競争の結果ではなかったと私は思っています。むしろ各国の政治的な思惑や、国際環境、その他の要素の影響の方が大きかったように思えるのです。
半導体トランジスタは日本人の発明ではありません。アジア・太平洋戦争の終結後まもない1947年に、アメリカのベル研究所のジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンが発明したものです。アメリカなどの連合国と戦い敗戦国となった日本は、当時GHQによる占領下にあったのですが、同じ敗戦国であるドイツがアメリカ、ソ連、イギリス、フランスによって分割して占領下に置かれたのとは異なり、ほぼアメリカ一国による統治を受けました。(注1)すでに戦時中から社会主義国と資本主義国との東西冷戦がはじまっていたことから、日本はアメリカの軍事的戦略によって、対社会主義圏に対する砦の役割を担わされていくことになりました。
日本を西側陣営における前線の砦とするうえで、アメリカは日本経済をまず戦後のインフレ状況から抜け出させるために、1948年に経済安定9原則を日本政府に提示し、翌1949年には「ドッジライン」(注2)により、経済建て直しの実行を強力に求めました。このときの金融の引き締めが中小企業の相次ぐ倒産を招いたものの、1950年の朝鮮戦争による特需によって日本経済は軌道に乗り、とくに重工業が発展する土台ができました。
当時のアメリカの思惑は、日本を農業と軽工業中心の遅れた国のまま据え置くのではなく、重化学工業を中心とした資本主義国として発展させることでした。しかしこの頃の日本は、技術的に欧米諸国から遅れていました。1931年の満州事変を期に欧米諸国との関係が悪化し、国際連盟を脱退するなど国際社会からしだいに孤立していったことから、終戦直後まで最先端の技術の導入が困難となっていたためです。そこでアメリカは日本の経済発展のために自国の先端技術を日本に移植して発展させる方針を採りました。
これら技術の中に、半導体技術も含まれていました。トランジスタが発明された頃、GHQは日本の科学者たちがアメリカの科学雑誌を読めるように取り計らったと言います。(注3)東京通信工業(現在のソニー)は、ウェスタン・エレクトリック社からトランジスタのライセンスを受け、1955年にはTR-55というトランジスタラジオの発売に漕ぎつけました。このような半導体に関する基本特許の使用に関して、アメリカの態度は鷹揚だったと言います。もう少し後の時代になると、日本の工業製品は高品質で知られるようになりますが、おおもとになったデミングの品質管理の技術もまた、アメリカからもたらされたものでした。
工業製品の市場に恵まれたことも、日本の経済発展を支えました。1950年の世界の人口は約25億人で、日本の人口は中国、インド、アメリカ、ソ連に次ぐ第5位の約8600万人でした。1960年の世界人口は約30億人、日本は約9600万人でやはり第5位の人口大国でした。このことによって日本はまず国内に大きな市場を持つことができました。先に国内市場で実力を付けて、その必要を満たすと、さらに輸出によって市場を拡大していった訳ですが、このとき1ドル360円の固定相場と、アメリカが日本の輸出先として製品を大量に受け入れたことも経済発展を促しました。(現在のトランプ関税に象徴される日米関係とはかなり違っていました。)対アメリカの輸出率が高かったときには、日本の経済成長率も高かったと言います。(注4)
このように書くと、徹頭徹尾アメリカのおかげで発展したかのように思われたかも知れませんが、そういう事ではありません。確かに重化学工業に関連した最先端の重要な技術をアメリカから導入したとはいえ、日本にはそれを活かせるだけの過去の技術の蓄積があり、そのうえで独自に追加のR&Dを行うことで技術革新につなげることができたと言います。(注5)こうして日本の製造業が大きく成長したことは、半導体事業にとっても国内企業向けという大きな市場を獲得することを可能としました。電機や自動車などの分野では世界的な企業がいくつも現われ、日本の半導体産業はこれら大手の電機メーカー内における重要な部品調達のための部門として出発することができました。
それから、日本の高度成長を可能にした重要な要素は教育にもありました。戦後、欧米諸国と同様に教育の機会平等化が促進されて、中学校までは義務教育となり、多くの人が高等教育を受けられるようになりました。(注6)教育水準の向上によって、科学技術の総合力を必要とする半導体産業を発展させられるだけの理科系の人材を国内でまかなうことが出来ただけではありません。工場の現場の労働者もまた優秀でした。日本の場合には、欧米のようにいわゆるホワイトカラーとブルーカラーが断絶せず、生産現場では一体となって装置や新製品の立ち上げ、不良品の解析と歩留向上に協力して取り組んだことが、品質の造り込みを可能としました。
(この項は第15回に続きます。)
2025年10月21日
注1) 北方4島と千島列島についてはソ連が占拠し、ロシアになった後も現在に至るまで不法占拠を続けているという問題があります。
注2)ドッジラインとは、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジを日本に派遣して実施させた、先の経済安定9原則に関する具体的な政策のことを言います。この政策の実行過程では、多数の企業倒産や、国鉄などの労働者の大量解雇など、大変な苦難があった訳ですが、それらに関してここでは触れません。
注3) クリス・ミラー 「半導体戦争(2023年2月14日)」の 第9章「日本の経済復興」を参照。(80ページ)
注4)藤田実「日本経済の構造的危機を読み解く(2014年2月25日) 26ページ参照。
注5)尹文渉「日本の国家研究開発活動の変遷過程およびその特徴」(1990年3月 科学技術政策研究所調査研究資料)
注6)トマ・ピケティ著、山形浩生・森本正史訳「資本とイデオロギー(2023年8月22日 みすず書房)」の第11章、492-495ページおよびトマ・ピケティ著、広野和美訳「平等についての小さな歴史(2024年9月17日 みすず書房)」の110-111ページでは、日本の教育の普及がアメリカに次ぐ水準だったことが、ドイツとともに他のヨーロッパ諸国よりも早くアメリカに追いついた理由だと説明しています。少し長いですが、後者から引用します。
「日本では、1880年代から1930年代の間にすでに教育の拡大が加速しており、欧米列強との熾烈な競争や追い抜きレースを繰り広げて、ヨーロッパより早くアメリカに追いついている。具体的には、中等教育就学率は1950年代に60%に達し、1970年代初めには80%を超えていた。
(中略)1880年代から1940年代までに、化学、鉄鋼、電気、自動車、家電などの部門で、第二次産業革命が起こり、専門技術を持つ人材の必要性がいっそう高まった。(中略)第二次産業革命では、技術的素養やデジタルの素養を最低でも必要とする製造工程での作業を難なくこなし、設備のマニュアルを理解できる人材がどんどん必要となった。そんなわけで、新しい産業部門においてまずアメリカが、次いで国際舞台の新参者であるドイツと日本が次第にイギリスより優位に立つようになった。」