第1回 言語化するということ
「長文失礼します」
こんな書き出しで始まるメールをたまに見ることがあります。でも読んでみるとちっとも長文でなかったりします。そもそも長文とは何文字以上のことを言うのだろうかとネットで調べたところ、150字と出てきました。X(Twitter)で一度に発信できる文字数が140字なので、これを超えるようなものは長文なのだそうです。長文は読むのが面倒くさいし、この「タイパ」の時代には、あらかたスルーされてしまうことにもなります。
この連載の文章は1回あたり1500〜4000字程度を目安としていますので、長文の部類に属すことになります。しかし長文は読まれないと言われても、長い文章でなければ表現できないこともあります。
ジョージ・オーウェルの小説「1984」は、書かれた当時(1940年代後半)から見た近未来を描いたディストピア小説です。(注1)この小説の世界では、「ニュースピーク(Newspeak)」と呼ばれる新しい表現形態の英語が使われています。このニュースピークというのは、全体主義の政府にとって都合の悪い思考を人々ができなくすることを目的に、従来の英語を簡素化したものです。ニュースピークの辞書は、改定されるたびにその語彙数を減らしていき、以前は存在した言葉が持っていた概念が消失したり、ひとつひとつの言葉から細やかさや正確さが失われていきます。オーウェルは私たちの思考がいかに言葉に依存しているかに気付かせてくれます。
ひとつひとつの言葉は、私たちの思考を組み立てる部品のようなものです。言葉の概念を共有する者どうしが、言葉を組み上げて自らの思考を表現してはじめて、お互いが理解しあうことが可能になるのだと思います。さもないと、私たちはお互いに相手の言っていることを誤解することになり、コミュニケーションが取れない状態になっていきます。
私たちルネサスの社員は、一人ひとりがそれぞれに何かを思い、考えながら日々の生活を送っていると思います。しかしそれらを表現し、共有する機会は、あまり持っていないと思います。この連載では、さまざまなテーマを文章化することで、各自がぼんやり思っていること、何となく違和感を覚えていることなどが代弁できたら良いと思います。「そう、そんな感じ」と思ってもらえるような文章表現ができたら、私としてもうれしく思います。なぜなら、こうして文章によって言語化していくことは、私たちが思いを共有しながらつながっていくために必要なことであると考えているからです。それだけでなく、私たちが自分自身を誤解しないために、誰かにとって都合の良い考え方に取り込まれないためにも必要なことであると考えています。
ひとりのルネサス社員にすぎない無名の人間が書いた、この稚拙で読むのが面倒くさい文章を、一体だれが、何人が読むのだろうかと言えば、ごく少数だろうと思います。もっと優れた論考が一般の書籍として無数に出ているのだから、それらを薦めれば良いという考え方もあります。でも、同じルネサスで働いている社員が「私はこう考えています」と言うからこそ、「ああ、そう考える人がいるのか」と関心を寄せてくれる社員もいるはずだと思います。これがルネサス懇で文章を掲載する意義です。
私たちはみな、自分一人で社会を変えられるわけではありません。でも、社会のいろいろな人や物とつながることは出来ます。そしてその向こうの人や物とも間接的につながることができると思えれば、どんな些細なことでも無駄では無いと感じることができるものと思います。(逆につながりを感じることができなければ、自分は何も影響をあたえることができない、何も変えられないという感覚になります。つまり孤独感と無力感はとても近しい関係にあると言えます。)日本国憲法の前文には、「諸国民の公正と信義に信頼して」という言葉があります。とても良い言葉だと思います。社会をより良いものにして行こうとする世界中の人々やグループの活動を信じて、私は私の持ち場であるルネサス懇でやっていくということです。
2025年7月21日
注1)ディストピアの意味として、Wikipediaでは「反理想郷・暗黒世界、またはそのような世界を描いた作品、「否定的に描かれたユートピア」を指す言葉。逆ユートピアや暗黒郷などとも言われる。」と説明しています。